江戸庶民の楽しみ 53
★安永九年春・一月~三月
★一月
九日○九過より(略)浅草参詣(略)神明参詣(略)保福寺前(略)谷中通山内屏風坂、車坂の門より出(略)三河屋に休み田原町中小路並木へ出、風神門内群集、直に参詣(略)柳屋十次郎鄽(略)伊勢屋に休む(略)帰路広小路より例の如し、孔雀屋(略)山下より中町手打そはへ立寄(略)客甚多し(略)女坂より上り伊勢屋江行(略)地蔵・聖廟拝し西門より(略)土物店(略)吉祥寺前(略)暮前帰る
十八日○九過より浅草参詣(略)土物店(略)加賀門前より天沢寺(略)聖廟拝し男坂伊勢屋に休む(略)女坂より下る中町(略)弘徳寺より甚賑也(略)田原町二丁目(略)御堂前(略)風神門内参詣多し、直に観音拝し御手洗へ鰻放し下向、伊勢屋に休む(略)御堂前(略)孔雀屋江立寄、客多し(略)車坂より上る(略)大師参詣(略)法住寺橋にて竹に付たる煎餅買ハせ、首振坂(略)富士前(略)奥の口より帰る
廿日○九過より一ツ目金毘羅参詣(略)土物店に太神楽舞ひ人込合、湯島参詣(略)男坂を下り御成小路に(略)上野参詣(略)松永町(略)藤堂前、新橋、柳原、両国(略)金毘羅参詣、帰りに丸屋へ立寄(略)薬研堀不動参詣、浅草見附前へ出柳原通(略)筋違橋(略)御成小路(略)数寄屋町小道具屋ことに立寄、中町手打蕎麦へ(略)湯島切通し下駄屋毎に立寄(略)加賀脇より本郷通(略)大番町(略)帰廬七半過
廿五日○九時より湯島参詣(略)吉祥寺前(略)本郷(略)湯島甚群集直に参詣、男坂伊勢屋に休む(略)植樹を見、地蔵拝し女坂より下り(略)中町へ出(略)山下鄽(略)松屋鄽(略)上野へ入る、吉祥閣(略)寺町諾所(略)谷中門(略)千駄樹(略)御鷹匠前(略)八半少過帰慮
廿八日○九ツより珠成同道浅草真崎へ(略)上野日長原(略)車坂より下り広徳寺前御堂うち賑ゆへ通り、浅草広小路にて大なる葬礼を見る、供百人余、尋さすれハ森下町山田屋と云酒家の由、浅草賑也(略)参詣(略)海老屋に休む(略)聖天町より穢多町へかかる(略)浅茅原(略)裏通り仙石屋へ行(略)吉原前より根岸(略)乞食坂へ(略)登畢(略)瘡守前より桟崎通り暮少前帰家、
廿九日○九時よりお隆同道日暮里へ(略)表門より妙喜坂笠志茶屋に休み、野通り道灌山(略)山の下り際より青雲寺裏迄泥濘如沼、女花子多く集居て往来に下駄を借す様子(略)桜屋に休み青雲寺より(略)法華寺芝上にて開宴(略)浜田屋きんとん取寄(略)いろは二町を廻り谷中通、桟崎にて笹に付し煎餅求め(略)世尊院前身代地蔵を過、松悦方へ立寄暫休み、暮少前帰廬
この年の正月は、九日が最初の外出、その次が十八日と、例年より出かける日にちがゆっくりしている。出かける先も、一ツ目金毘羅や日暮里などいつもの年とは少し違う。変わらないのは浅草などの人出、月初めの観察がないので断言できないが、前年にも増して賑わっていたのでは。その中で気になる記述は、廿八日の「浅草広小路にて大なる葬礼を見る、供百人余」で、酒屋の葬礼が大々的に催された。町人は財力だけでなく、その存在もアピールしているということであろう。その他として、廿九日の道灌山で「女花子多く集居て往来に下駄を借す様子」と、下駄のレンタルが商売となっていたのだろう。信鴻が日記に逐次記しているのが道路の泥濘、いかに当時の道が歩きにくく大変であったかを示している。そのような道路事情もあって、「下駄を借す」ことに着眼したのだろう。
★二月
四日○九ツより浅草参詣(略)鰻堤にて定泉寺・正行寺(略)本郷(略)湯島参詣、聖廟拝し地蔵も拝し、女坂より中町広小路(略)山下より広徳寺前孔雀屋へ(略)直に浅草参詣(略)芳屋に休む(略)並木を一町下り田原町後ろ町小道具屋(略)紅担河孔後屋(略)山下手前広徳寺西(略)広小路へ出、池端竹細工の鄽(略)広小路石焼豆腐新鄽へ(略)広小路にて喧嘩を七八人(略)池端通り首振坂より世尊院(略)吉祥寺(略)帰廬暮前
十五日○九前(略)涅盤会に(略)谷中通観善寺火除不動尊入寺参詣群集(略)常行堂涅槃像拝す(略)車坂より下る、塗中惣而行人賑し、孔雀屋掛札を見、浅草参詣甚群集、芳屋に休む(略)観音拝し(略)後堂涅槃像を拝し、寝仏へ参り並木を下る、甚賑也(略)第六天内より両国へ出、橋上人群集、回向院参詣、本堂談議にて熟閙、玄関に涅槃像在、人を分て拝す、開帳のことく賑也、門より南折一目弁天・金昆羅参詣(略)両国渡り柳原新橋より三絃溝西折、加藤生駒前竹町宝王山末木弥陀参詣(略)中町卵麺へ(略)切通しへ(略)加賀脇より本郷通(略)七半過帰廬
十六日別録○市村座頑要
十八日○九ツより浅草参詣(略)谷中通観智院へ入一覧、屏風坂より下る、下寺宝勝院大師参詣、近年の大群集(略)爰より浅草迄行人市の如し、車坂門より出、田原町(略)戸繋伊せ屋に休む、因果地蔵参詣、本堂を拝し(略)奥山廻る、吉原禿廿人計山の茶屋へ行、先刻寺町にても大勢見掛る、又矢大臣門より禿十四五人来る(略)寺町(略)今日孔雀庵甚熱閙、鄽外に菓子鄽なと出し新に茶汲少女なと見ゆ(略)山下より竹町へ掛り三枚橋へ出植樹を見る、渡都に命し梅紅白接分棒木を直を付させ(略)中町手打へ(略)湯島女坂(略)お清茶鄽に休む(略)聖廟参詣、開帳仮店普請最中(略)本郷より帰る(略)七半過帰廬
廿七日○九半比よりお隆同道野遊に出(略)表門を出銚子や鄽へ(略)和泉境より建部の間抜野へ出、四辻より(略)畝道にて娵菜・蒲公・田芹を摘、滝川寺へ入(略)崖下へ下り窟を拝し、土橋を渡り(略)向崖上の民家の前に床机貸り弁当遣ひ酒を飲(略)爰より日色翳故王子へ出、権現拝し崖上より流川を望み、飛鳥山磴道を登り蒲公を摘(略)山を下り、本道(略)一本桜手前(略)笠志茶鄽(略)暮前帰廬
三十日○九半前より他行(略)土物店通湯島へ行、聖廟拝し(略)大坂屋へゆく、前乞食相撲人立在、明日より開帳の由(略)風強き故(略)女坂より下り中町鄽共を見、大槌屋雛鄽へ立寄(略)日野屋(略)広小路にて彼岸桜立花を穴沢に買ハせ(略)黒門(略)谷中通り首振下(略)千駄木植樹屋へ立寄、動坂植木屋(略)煙を弄し七ツ前帰廬
二月は、特別なイベントはないものの浅草などの盛り場は賑わいを呈し、信鴻は興味深げな光景をいくつも記している。十五日は恒例の涅槃会、例年より丹念に訪れているようで、また賑わいも増している。その他には、廿七日の野遊び、残念ながらまだ寒く堪能できたとは言えないが、花見の前の行楽であろう。また三十日、雛人形を身の回りの人にプレゼントしたのであろう、その補充に十軒店(雛人形の店が連なる)へ出かけようとしたが風強くあきらめている。
★三月
四日○九半前より湯島・浅草参詣(略)土物店本郷通り湯島開帳参詣、上毛此良田威徳山惣持寺本尊十一面観世音(略)縁起を求め普門品納め、聖廟拝しお清鄽に休む(略)地蔵拝し女坂より中町広小路(略)山下(略)浅草参詣(略)伊勢屋に休む、今日参詣多し(略)孔雀庵へ寄り句を付る(略)車坂より入、初め鰻堤より所々彼岸桜・桃花満開、護国院前より善光寺坂根津千手観音開帳へ行(略)参詣甚少し、身代地蔵より(略)御鷹部屋前より行、富士前(略)七半頃帰廬
九日○八前よりお隆同道西原へつみ草に(略)笠志門前畝道煉菜・芹を摘、無量寺に入如来観音を拝し、(略)笠志方へ行弁当(略)畝道へ出草を摘、小魚をすくふ(略)龍志西隣勝蔵院(略)境内へ行、庭に大樹の彼岸桜満開、かしこの井にて手を洗ひ七杜の山へ升り本道へ出、笠志茶屋に休み(略)牡丹花や前へ行南折、又草をつみ黄昏に成ゆへ田のあせより螢沢橋江出、暮比帰廬
十日○八少前よりお隆同道つみ草に(略)殿中辻より山王山を下り田畑堤にて娵菜を摘、中里村へ入牡丹屋前(略)無量寺前より草を摘、三町はかり西の畷前後にて芹を取、七頃笠志方へ行、笠志迎に出、彼処にて弁当つかふ(略)仮山を廻り茶鄽の口ヘ出遠望、此頃桜花・桃季・辛夷満開(略)笠志前導草を摘ながら行、無量寺前より南行、石橋を渡り洞津侯長屋の間へ出暮時帰廬
十六日○九過よりお隆同道摘草(略)西門より出巣鴨通りへ(略)御鷹狩御成にて(略)根岸彼処辺も御狩場の由(略)摺鉢山へかかり、具茨旧邸前にて娵菜つみ、巣鴨かみ新田にて娵菜・芹を取流にて洗ひ、雑司谷御鷹匠屋敷前の畷にて又摘草、所々忍冬を取、白鳥稲荷にて烟を弄し、御鷹部屋より千年堂下の三辻へ出、茗荷屋脇にて又摘草、和泉屋(略)亭主庭に植し由桜草数株貰ふ(略)鬼子母神参詣(略)茗荷屋裏にて娵菜沢山摘(略)本通を帰る、護国寺外を廻り大学館径道裏門(略)猫また橋より六半前西門より帰廬
二十日○九前より浅草参詣(略)門前花見遊客多し、谷中妙法寺千部にて大挑燈左右に掲け参詣賑也(略)上野中人叢引も切らす、残桜所々に在、車坂より下り孔雀屋鄽先に(略)三河屋に休む(略)池の妙音寺に開帳ゆへ行(略)本堂にて談議聴衆二三十人(略)御堂裏誓願寺前より田原町へ出、風神門(略)参詣、御手洗へ鰻を放し、裏門外海老屋に休む(略)聖天町より新町を行抜、浅茅原より裏通り仙石屋へ(略)土堤より金杉へ出、町家へ寄山崎町へ(略)植樹屋を見、小野照崎参詣、裏門より出、根岸門より信濃坂を登る、塗中人叢夥し(略)千駄樹植樹屋を見、動坂上へ(略)入相比帰家
二月末、廿八日「お隆折詰雛菓子貰ふ」、廿九日「例の通雛棚造、明日飾る」、三十日「大槌屋雛鄽へ立寄」など雛飾りに関する記述が多かった。三月になって、雛祭りとは記されていないが、月初めの行事のようになっている。三日には、「穴沢を此問槌屋にて気に入し雛買に遣ハす○萩原・野田・蔵持・山本に雛見せ廿糠遣ハす(略)捨・甚三郎へ小人形遺ハす、煮染・白酒・吸物等を出し夜餉喫(略)新雛穴沢求め来りお隆へ遣ハす」とある。小宴が有り、お隆だけでなく甚三郎、男の子にも人形を遣わしている。
三月は開帳のシーズン、『武江年表』には「三月朔日より湯島社地にて、上野世良田感徳山惣持寺十一面観世音開帳○麻布善福寺冠纓聖徳太子開帳、親鸞上人筆八字名諕を拜せしむ○千駄が谷八幡宮神功皇后春日明神開帳○三月朔日より市谷柳町光徳院千手観世音開帳○同日より池の端妙音寺祖師開帳○三月十五日より、青山善光寺にて、攝津難波堀江一光三尊佛開帳、和光寺○三月十六日より、永代寺にて、葛飾郡吉川延命寺地蔵尊開帳」が記されている。信鴻も四日、湯島で惣持寺十一面観世音開帳に訪れている。その他にも『武江年表』に記されていない開帳にも訪れている。
三月は、花見のシーズンであるが、信鴻は「つみ草」の方に熱が入っている。六義園の中だけでは物足りなかったのか、九日、十日、十六日にも摘み草に出かけている。
その他のイベント・出来事として、深川卅三間堂で勧進相撲が興行されている。十二日に地震があったが、特に大きな被害はなかったようである。
★安永九年春・一月~三月
★一月
九日○九過より(略)浅草参詣(略)神明参詣(略)保福寺前(略)谷中通山内屏風坂、車坂の門より出(略)三河屋に休み田原町中小路並木へ出、風神門内群集、直に参詣(略)柳屋十次郎鄽(略)伊勢屋に休む(略)帰路広小路より例の如し、孔雀屋(略)山下より中町手打そはへ立寄(略)客甚多し(略)女坂より上り伊勢屋江行(略)地蔵・聖廟拝し西門より(略)土物店(略)吉祥寺前(略)暮前帰る
十八日○九過より浅草参詣(略)土物店(略)加賀門前より天沢寺(略)聖廟拝し男坂伊勢屋に休む(略)女坂より下る中町(略)弘徳寺より甚賑也(略)田原町二丁目(略)御堂前(略)風神門内参詣多し、直に観音拝し御手洗へ鰻放し下向、伊勢屋に休む(略)御堂前(略)孔雀屋江立寄、客多し(略)車坂より上る(略)大師参詣(略)法住寺橋にて竹に付たる煎餅買ハせ、首振坂(略)富士前(略)奥の口より帰る
廿日○九過より一ツ目金毘羅参詣(略)土物店に太神楽舞ひ人込合、湯島参詣(略)男坂を下り御成小路に(略)上野参詣(略)松永町(略)藤堂前、新橋、柳原、両国(略)金毘羅参詣、帰りに丸屋へ立寄(略)薬研堀不動参詣、浅草見附前へ出柳原通(略)筋違橋(略)御成小路(略)数寄屋町小道具屋ことに立寄、中町手打蕎麦へ(略)湯島切通し下駄屋毎に立寄(略)加賀脇より本郷通(略)大番町(略)帰廬七半過
廿五日○九時より湯島参詣(略)吉祥寺前(略)本郷(略)湯島甚群集直に参詣、男坂伊勢屋に休む(略)植樹を見、地蔵拝し女坂より下り(略)中町へ出(略)山下鄽(略)松屋鄽(略)上野へ入る、吉祥閣(略)寺町諾所(略)谷中門(略)千駄樹(略)御鷹匠前(略)八半少過帰慮
廿八日○九ツより珠成同道浅草真崎へ(略)上野日長原(略)車坂より下り広徳寺前御堂うち賑ゆへ通り、浅草広小路にて大なる葬礼を見る、供百人余、尋さすれハ森下町山田屋と云酒家の由、浅草賑也(略)参詣(略)海老屋に休む(略)聖天町より穢多町へかかる(略)浅茅原(略)裏通り仙石屋へ行(略)吉原前より根岸(略)乞食坂へ(略)登畢(略)瘡守前より桟崎通り暮少前帰家、
廿九日○九時よりお隆同道日暮里へ(略)表門より妙喜坂笠志茶屋に休み、野通り道灌山(略)山の下り際より青雲寺裏迄泥濘如沼、女花子多く集居て往来に下駄を借す様子(略)桜屋に休み青雲寺より(略)法華寺芝上にて開宴(略)浜田屋きんとん取寄(略)いろは二町を廻り谷中通、桟崎にて笹に付し煎餅求め(略)世尊院前身代地蔵を過、松悦方へ立寄暫休み、暮少前帰廬
この年の正月は、九日が最初の外出、その次が十八日と、例年より出かける日にちがゆっくりしている。出かける先も、一ツ目金毘羅や日暮里などいつもの年とは少し違う。変わらないのは浅草などの人出、月初めの観察がないので断言できないが、前年にも増して賑わっていたのでは。その中で気になる記述は、廿八日の「浅草広小路にて大なる葬礼を見る、供百人余」で、酒屋の葬礼が大々的に催された。町人は財力だけでなく、その存在もアピールしているということであろう。その他として、廿九日の道灌山で「女花子多く集居て往来に下駄を借す様子」と、下駄のレンタルが商売となっていたのだろう。信鴻が日記に逐次記しているのが道路の泥濘、いかに当時の道が歩きにくく大変であったかを示している。そのような道路事情もあって、「下駄を借す」ことに着眼したのだろう。
★二月
四日○九ツより浅草参詣(略)鰻堤にて定泉寺・正行寺(略)本郷(略)湯島参詣、聖廟拝し地蔵も拝し、女坂より中町広小路(略)山下より広徳寺前孔雀屋へ(略)直に浅草参詣(略)芳屋に休む(略)並木を一町下り田原町後ろ町小道具屋(略)紅担河孔後屋(略)山下手前広徳寺西(略)広小路へ出、池端竹細工の鄽(略)広小路石焼豆腐新鄽へ(略)広小路にて喧嘩を七八人(略)池端通り首振坂より世尊院(略)吉祥寺(略)帰廬暮前
十五日○九前(略)涅盤会に(略)谷中通観善寺火除不動尊入寺参詣群集(略)常行堂涅槃像拝す(略)車坂より下る、塗中惣而行人賑し、孔雀屋掛札を見、浅草参詣甚群集、芳屋に休む(略)観音拝し(略)後堂涅槃像を拝し、寝仏へ参り並木を下る、甚賑也(略)第六天内より両国へ出、橋上人群集、回向院参詣、本堂談議にて熟閙、玄関に涅槃像在、人を分て拝す、開帳のことく賑也、門より南折一目弁天・金昆羅参詣(略)両国渡り柳原新橋より三絃溝西折、加藤生駒前竹町宝王山末木弥陀参詣(略)中町卵麺へ(略)切通しへ(略)加賀脇より本郷通(略)七半過帰廬
十六日別録○市村座頑要
十八日○九ツより浅草参詣(略)谷中通観智院へ入一覧、屏風坂より下る、下寺宝勝院大師参詣、近年の大群集(略)爰より浅草迄行人市の如し、車坂門より出、田原町(略)戸繋伊せ屋に休む、因果地蔵参詣、本堂を拝し(略)奥山廻る、吉原禿廿人計山の茶屋へ行、先刻寺町にても大勢見掛る、又矢大臣門より禿十四五人来る(略)寺町(略)今日孔雀庵甚熱閙、鄽外に菓子鄽なと出し新に茶汲少女なと見ゆ(略)山下より竹町へ掛り三枚橋へ出植樹を見る、渡都に命し梅紅白接分棒木を直を付させ(略)中町手打へ(略)湯島女坂(略)お清茶鄽に休む(略)聖廟参詣、開帳仮店普請最中(略)本郷より帰る(略)七半過帰廬
廿七日○九半比よりお隆同道野遊に出(略)表門を出銚子や鄽へ(略)和泉境より建部の間抜野へ出、四辻より(略)畝道にて娵菜・蒲公・田芹を摘、滝川寺へ入(略)崖下へ下り窟を拝し、土橋を渡り(略)向崖上の民家の前に床机貸り弁当遣ひ酒を飲(略)爰より日色翳故王子へ出、権現拝し崖上より流川を望み、飛鳥山磴道を登り蒲公を摘(略)山を下り、本道(略)一本桜手前(略)笠志茶鄽(略)暮前帰廬
三十日○九半前より他行(略)土物店通湯島へ行、聖廟拝し(略)大坂屋へゆく、前乞食相撲人立在、明日より開帳の由(略)風強き故(略)女坂より下り中町鄽共を見、大槌屋雛鄽へ立寄(略)日野屋(略)広小路にて彼岸桜立花を穴沢に買ハせ(略)黒門(略)谷中通り首振下(略)千駄木植樹屋へ立寄、動坂植木屋(略)煙を弄し七ツ前帰廬
二月は、特別なイベントはないものの浅草などの盛り場は賑わいを呈し、信鴻は興味深げな光景をいくつも記している。十五日は恒例の涅槃会、例年より丹念に訪れているようで、また賑わいも増している。その他には、廿七日の野遊び、残念ながらまだ寒く堪能できたとは言えないが、花見の前の行楽であろう。また三十日、雛人形を身の回りの人にプレゼントしたのであろう、その補充に十軒店(雛人形の店が連なる)へ出かけようとしたが風強くあきらめている。
★三月
四日○九半前より湯島・浅草参詣(略)土物店本郷通り湯島開帳参詣、上毛此良田威徳山惣持寺本尊十一面観世音(略)縁起を求め普門品納め、聖廟拝しお清鄽に休む(略)地蔵拝し女坂より中町広小路(略)山下(略)浅草参詣(略)伊勢屋に休む、今日参詣多し(略)孔雀庵へ寄り句を付る(略)車坂より入、初め鰻堤より所々彼岸桜・桃花満開、護国院前より善光寺坂根津千手観音開帳へ行(略)参詣甚少し、身代地蔵より(略)御鷹部屋前より行、富士前(略)七半頃帰廬
九日○八前よりお隆同道西原へつみ草に(略)笠志門前畝道煉菜・芹を摘、無量寺に入如来観音を拝し、(略)笠志方へ行弁当(略)畝道へ出草を摘、小魚をすくふ(略)龍志西隣勝蔵院(略)境内へ行、庭に大樹の彼岸桜満開、かしこの井にて手を洗ひ七杜の山へ升り本道へ出、笠志茶屋に休み(略)牡丹花や前へ行南折、又草をつみ黄昏に成ゆへ田のあせより螢沢橋江出、暮比帰廬
十日○八少前よりお隆同道つみ草に(略)殿中辻より山王山を下り田畑堤にて娵菜を摘、中里村へ入牡丹屋前(略)無量寺前より草を摘、三町はかり西の畷前後にて芹を取、七頃笠志方へ行、笠志迎に出、彼処にて弁当つかふ(略)仮山を廻り茶鄽の口ヘ出遠望、此頃桜花・桃季・辛夷満開(略)笠志前導草を摘ながら行、無量寺前より南行、石橋を渡り洞津侯長屋の間へ出暮時帰廬
十六日○九過よりお隆同道摘草(略)西門より出巣鴨通りへ(略)御鷹狩御成にて(略)根岸彼処辺も御狩場の由(略)摺鉢山へかかり、具茨旧邸前にて娵菜つみ、巣鴨かみ新田にて娵菜・芹を取流にて洗ひ、雑司谷御鷹匠屋敷前の畷にて又摘草、所々忍冬を取、白鳥稲荷にて烟を弄し、御鷹部屋より千年堂下の三辻へ出、茗荷屋脇にて又摘草、和泉屋(略)亭主庭に植し由桜草数株貰ふ(略)鬼子母神参詣(略)茗荷屋裏にて娵菜沢山摘(略)本通を帰る、護国寺外を廻り大学館径道裏門(略)猫また橋より六半前西門より帰廬
二十日○九前より浅草参詣(略)門前花見遊客多し、谷中妙法寺千部にて大挑燈左右に掲け参詣賑也(略)上野中人叢引も切らす、残桜所々に在、車坂より下り孔雀屋鄽先に(略)三河屋に休む(略)池の妙音寺に開帳ゆへ行(略)本堂にて談議聴衆二三十人(略)御堂裏誓願寺前より田原町へ出、風神門(略)参詣、御手洗へ鰻を放し、裏門外海老屋に休む(略)聖天町より新町を行抜、浅茅原より裏通り仙石屋へ(略)土堤より金杉へ出、町家へ寄山崎町へ(略)植樹屋を見、小野照崎参詣、裏門より出、根岸門より信濃坂を登る、塗中人叢夥し(略)千駄樹植樹屋を見、動坂上へ(略)入相比帰家
二月末、廿八日「お隆折詰雛菓子貰ふ」、廿九日「例の通雛棚造、明日飾る」、三十日「大槌屋雛鄽へ立寄」など雛飾りに関する記述が多かった。三月になって、雛祭りとは記されていないが、月初めの行事のようになっている。三日には、「穴沢を此問槌屋にて気に入し雛買に遣ハす○萩原・野田・蔵持・山本に雛見せ廿糠遣ハす(略)捨・甚三郎へ小人形遺ハす、煮染・白酒・吸物等を出し夜餉喫(略)新雛穴沢求め来りお隆へ遣ハす」とある。小宴が有り、お隆だけでなく甚三郎、男の子にも人形を遣わしている。
三月は開帳のシーズン、『武江年表』には「三月朔日より湯島社地にて、上野世良田感徳山惣持寺十一面観世音開帳○麻布善福寺冠纓聖徳太子開帳、親鸞上人筆八字名諕を拜せしむ○千駄が谷八幡宮神功皇后春日明神開帳○三月朔日より市谷柳町光徳院千手観世音開帳○同日より池の端妙音寺祖師開帳○三月十五日より、青山善光寺にて、攝津難波堀江一光三尊佛開帳、和光寺○三月十六日より、永代寺にて、葛飾郡吉川延命寺地蔵尊開帳」が記されている。信鴻も四日、湯島で惣持寺十一面観世音開帳に訪れている。その他にも『武江年表』に記されていない開帳にも訪れている。
三月は、花見のシーズンであるが、信鴻は「つみ草」の方に熱が入っている。六義園の中だけでは物足りなかったのか、九日、十日、十六日にも摘み草に出かけている。
その他のイベント・出来事として、深川卅三間堂で勧進相撲が興行されている。十二日に地震があったが、特に大きな被害はなかったようである。