天明一年春・一月~三月

江戸庶民の楽しみ 57
天明一年春・一月~三月
★一月
 元日に根岸から梅鉢植を貰うこと、三日の夜の賑やかなこと、十五日に万才福太夫の訪れることなどは、前年と変わらない。しかし、信鴻の湯島・浅草への初詣は十七日と、昨年にもまして遅い。なお、一月の出来事として、九日の日記にも書かれているように大火があった。『武江年表』には「○正月八日、新材木町和國餅の店より出火、両芝居その外類焼、霊巌島にいたる」とある。信鴻は、二月十五日に涅槃会参詣の途中で、再建中の芝居小屋を見ている。
十七日○九過より湯島・浅草参詣(略)本郷真光寺聖廟恵方にあたる故参詣、湯島聖廟拝しお清鄽へ(略)中町通山下より広徳寺前田原町中の小路に(略)並木へ出直に観音参詣、今日賑なから常よりハ少し、御手洗へ鰻放し、伊勢やに休み(略)広徳寺前車坂より谷中門世尊院前へ(略)湯島(略)松悦方へ(略)世尊院を過て七の鐘聞ゆ、七過帰廬
十八日○九半過より大師参詣(略)表門より出、富士裏に掛り神明裏(略)日長原にて水茶屋に問、瑠璃殿後より東南角凌雲院大師へ詣、大熱閙人叢分かたし、表門より入裏門より出、清水参詣、山内群集、坂を下り黒門より出植樹を見(略)男坂より湯島参詣、お清みせ客多し、母の鄽へ(略)西門より出塗中甚賑也(略)七過表門より帰廬
廿三日○四半過より上邸(略)肴店竹町四辻薬種屋南より左右町家不残焼込、往来騒し(略)竹町辺一丁四方程焼、人叢分難し、昌平橋旧臘(略)筋違橋旭山に休む(略)京橋三丁過河岸へ(略)山下門より入、新道口より入る(略)新道より出、幸橋より塩留、木挽町猿屋へ(略)外に小看板かかる、五丁目の橋より通りへ出、弓町横より河岸、鍛冶橋、大名小路(略)内蔵頭辻より八代曾河岸、一ツ橋小河町(略)水道橋(略)水戸脇(略)六半過奥口より帰る
★二月
朔日○九少過より浅草参詣(略)神明拝し谷中通、上野(略)屏風坂門外光岩寺参詣、本堂地蔵尊拝し(略)御徒町広徳寺前へ出、新寺町辻(略)池の玅音寺にて鎌倉名越谷長勝寺祖師開帳ゆへ行、堂右仮屋に有、霊宝多し、本堂にて談儀、参詣賑し、裏門より出、御堂裏田原町小泉屋(略)戸繋伊せやに休む(略)観音拝し御手洗へ鰻放し(略)前路を帰る、車坂門より入、帰廬の時七の鐘聞ゆ
八日○九半前より滝野村寿徳寺観音へ参詣(略)笠志茶鄽へ行(略)休む(略)一本桜より西原権左衛門方へ行(略)日光より持来りし五葉の松を見る、枝三十余四方へ分れ五六尺計の松也、夫より弁天前の道にかかり(略)滝野村也、坂を下れハ滝野河の水上にて三間斗の土橋有、脇に茅葺の一間四面の小堂、行恵居士の木像在、半丁計奥山門に南照山の額を渇、本堂にて薩埵を拝し(略)小道より本道へ出、建部屋布手前大根原民家の厠を貸り大觧、藤堂前横町にて笠志を帰し、八半時表門より帰る
十五日○九少前より涅槃会参詣(略)吉祥寺涅槃会参詣、玄関の正面に紺地泥画の大幅掛る、裏門より出る、天沢寺参詣(略)壷山老侯墳墓へ参詣、聖廟・地蔵拝し、お清鄽に休む(略)中坂を下り柳原よりお玉か池(略)伝馬町(略)新材木町より焼場見る(略)市村囲計幟建、普請小屋に人多し、中村ハ櫓より向桟敷皆建最中修理にて甚賑ハし(略)松屋へ立寄(略)前路を帰る、伝馬町(略)昌平橋如来建立場(略)崖上にかかり聖廟辺拝、春木町森田に休む(略)主婆云フ、総州一月寺開帳去十一日廻向院へ着、虚無僧百余迎に出甚賑しく、今日開帳初日の由を語る、木郷通りひいとろや(略)饅堤にて七の鐘聞え、七過帰廬
廿六日○九過(略)浅草廻向院参詣(略)谷中通上野今日御成後参詣甚多し(略)車坂(略)田原町角板倉屋(略)戸繋伊せ屋に休む(略)風神門内珠数屋へ(略)今日彼岸中日、山門あく、賑ながら群集に非す、薩埵を拝し御手洗へ鰻放し、奥山(略)八の鐘聞へ参詣甚多し(略)並木を下る、塗中甚賑也、萱町中舘向ふ蕃麦や駿河屋二階にて蕎麦喫、街道郡集(略)両国より人叢分かたし、廻向院玄関前に開帳場在、甚熟閙ゆへ下より拝す、一月寺本尊文仏也、土間より霊宝共見る、甚少し、(略)本堂も人叢ゆへ橡より拝し、柳原にて(略)大名の忍ひ(略)新橘菊や(略)三絃溝より西折、生駒わき中坂より湯鳥お清麟に休み(略)聖廟拝し西門より出、本郷(略)追分にて四谷鳶鳳巾買ひ、暮前帰廬
 二月の出来事として、『武江年表』に「○二月十五日より、回向院にて、下總小金普化宗本寺一月寺迦如来不動尊開帳」がある。日記に記された通り、一月寺の開帳は「十一日廻向院へ着、虚無僧百余迎に出甚賑しく」と、大層な評判で賑わったとされている。
★三月
朔日○九半頃より雛市へ(略)土物店より行(略)本郷四丁め(略)町中程より横町へ出東行、湯島裏門より入聖廟拝し、お清鄽に休む(略)中町本屋和泉屋半二郎鄽(略)槌屋雛鄽江行、甚見物多し(略)広小路へ出(略)十軒店へ(略)御成小路、筋違橘、今川橋(略)爰より塗熱閙分かたし、通り左右鄽のうしろより人にもまれゆく、唐木屋雛市へ上る、二階にて古今雛一双見する(略)甚込合故下り千林堂雛見せへ(略)是ハ旧年も雛求めし鄽なり(略)大雛其外大人形数十在、六寸古今雛を買ひ(略)鄽を見廻り(略)今川橋東詰新鄽淡雪へ(略)昌平橋より天神下通(略)蘭麪へ(略)蕎麦を喫(略)切通しより本郷通り、入相頃帰る
六日○九前より上邸へ(略)木郷通、筋違旭山に休み、通町、銀座四丁メより数奇屋橋山下門(略)中僑より(略)新道門より入(略)牛込七軒寺町久成寺来り(略)銕五郎部屋へ行、湯を浴るを見る(略)八半過新道門より出(略)山下門より数寄屋河岸、銀坐三丁目出、日本橋より小田原町、あらめ橋(略)思案橋仮橋より渡る、市村櫓上家造大け向桟敷半出来、中村舞台根太を掛る、松屋三分一出来根太を張(略)人形町直行、お玉か池より柳原神田井筒屋に休む(略)帰廬暮時
九日○九前より珠成同道浅草参詣(略)谷中通り車坂より出、塗中賑也(略)戸繋伊勢やに休む(略)寺内甚群集、直に参詣、御手洗へ鰻放し(略)例の数珠屋へ立寄(略)鉢植海棠に直を付れ共うらす、火伸町より二丁め裏へ出、御堂前本法寺総州平賀本大寺祖師開帳ゆへ行く、参詣少し、霊宝古木の文仏・子安鬼子母等拝す(略)寺町本屋にて辟狐鏡求め、谷中にて大名遠乗に逢、千駄樹花崖へより鉢植を見、動坂花屋にて牡丹・桃求させ、樹大次る故後剋堀に遣へき由穴沢約し、八半前帰盧
十日○九半頃よりお隆同道摘草に(略)和泉前通り少し先へ行、辻番より同道、御用舘より滝野川道、行々娵菜・芹を摘、未延す、滝川寺(略)弁天杜(略)谷へ下り又崖道を登り、崖上にて腰掛茶屋に休み、弁当不残つかひ酒を飲、寺を出又摘草、滝不動前東南行(略)西原源五衛門庭を見(略)酒機嫌にて(略)笠志鄽上へ(略)幕過門より帰る、帰廬暮過
十二日○四過より六本木へ(略)土物たなより白山前(略)伝通院(略)牛込門より御厩谷、平河天神拝し、茶屋にて休み、裏門より紀侯前、赤坂門、溜池、はた田町五丁目より南部坂谷町永昌寺観音参詣、御経納め、市兵衛町より六本樹裏門を入(略)裏門より片町切通し光宝寺参詣、櫨手向、馬場より烏森通、中川前、塩留、猿屋へ行、忠臣蔵昨日より始り(略)一幕見物猿屋へ帰る、前剋松坂屋前より町火消続き出る、麻布辺失火の由(略)五丁目橋より通りへ出、神田前井筒屋に休み(略)木郷通り大番町(略)六半前奥口より帰る
十四日○九時より月桂寺参詣(略)幽霊橋より安藤脇縛地蔵、大日坂、早稲田寺の門内にて烟を弄し、榎町、七軒寺町、河田か窪月桂寺松竹庵へ立寄(略)御墳墓諸所拝し(略)茶を飲、前路を帰り、音羽町(略)護国寺(略)猫また橋にかかり西門より八半前帰廬
十五日○九時より浅草参詣(略)谷中通り上野内山桜満開、彼岸桜半散落、車坂より行、塗中賑也、十八日浅草三社祭にて浅草町々一丁一丁に大幟立る、東仲町にて出しをかつき稽古する様子(略)風神門内左右に高く桟敷を軒に等しく掛賑也、伊勢屋に休む(略)今日甚群集(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し、榧木八幡拝し、前路を帰る(略)並木を一丁下り中通り(略)車坂より八半頃帰廬
十七日○九少前よりお隆同道珠明院善光寺如来開帳参詣(略)笠志前へ平塚八幡観世音拝す(略)平塚坂を下り(略)梶原村へ入川端薪屋次郎兵衛門へ入、八重桜数株満開、つはき色々咲乱たり、坐敷に女客・武士なと見ゆ(略)梶原淵崖上より歩みを渡し舟に乗る(略)尾久のわたし三町はかり先に見ゆ、向の岸は土堤にて坂険阻也、土堤の下ハ野新田に続きたる曠野、桜草所々に開き、あちさいに似て黄たる花の草、解夏草一面、三町はかりにて畑の間へ(略)沼田村珠明院也、高札たてみせ物鬼娘看板有、参詣多からす、内陣にて拝す(略)涅槃像拝す、旧年より甚小し、帰路娵菜・野韮・忍冬を取々行、曠野少手前にて先剋次兵衛方に(略)曠野にて桜草を堀(略)珠明寺門(略)如来を拝し(略)又舟に乗(略)次兵衛坐敷に休む、庭狭く仮山水在(略)爰より又々摘草、芹もつみ、平塚坂下石橋前植樹屋を貸り奥座敷にて弁当遣ふ、庭一面八汐楓等を植(略)平塚坂を升る(略)笠志茶店へ(略)無最寺前田畝にて摘草、牡丹花や前より畑中を螢沢江出、暮前帰廬
 三月の日記から注目するのは、雛人形浅草三社祭善光寺如来開帳である。十軒店は、安永年間以前から雛人形の店が繁盛していたのだろう。次は、十五日の日記に記された浅草三社祭礼である。『武江年表』には「○三月十八日、浅草三絃権現祭礼久しく絶たりしが、今年御輿乗船、産子の町々より出し、練物を出す、其後久しく中絶す」とある。広小路東側の「東仲町にて出しをかつき稽古する」と、熱の入った様子が伝わってくる。浅草の三社祭は、江戸時代に毎年のように行われような印象が伝えられているが、『武江年表』に記される通り以後中絶した。次の祭は、50年間ほど後の文政五年(1822年)まで催されていない。またその後も中絶しており、理由は不明だが、幕府の締めつけがあったためではなかろうか。次に『武江年表』の「三月十一日より十三日迄、多田やくし内にて、同十四日より十八日迄、沼田村延命寺にて、信州善光寺四回如来御命文内拝」がある。信鴻も十七日に出かけている。