江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)289
東京からレジャーが消えるまで
戦前の東京市民は、どれくらい遊んでいただろうか。新聞に記された数字を見ると、最も多い日で、250万人もの人出があったらしい。そしてそれは、昭和五年四月六日の花見時、十五年十一月三日の明治節、同月十日の紀元二千六百年記念式の日に発生している。
人出が100万人以上あった日は、毎年のようにあり、十五年が9日、十四年と八年が5日もあった。大正時代に比べて、行楽などで出歩く人は明らかに多くなっている。なお、戦争が激化した十七年からは、100万人以上の人出が新聞に書かれることはなくなった。
人々のレジャー活動は、正月には初詣、二月は豆まき、というように毎年規則的に発生している。その規則性は、政府がブレーキをかけても容易に止まらない。花見が禁止されても、花見時の人出は沸き上がるように発生する。まるで行楽の法則があるようで、遊びのDNAとでもいうべきものが日本人の体内に組み込まれているに違いない。
一月から主な活動とその最大値を示すと、元日の初詣は、昭和十六年に160万人という人出が書かれている。二月は豆まき、十年には、市内の主な寺社などに32万人が出たとされ、近郊の成田山や川崎大師、また市内の小さな寺社を加えれば50万人を優に超えるだろう。
三月の人出は、花見直前の春の人出で、毎年数十万人の人出がある。なお、五年の帝都復興祭が催された式典の日は、200万人もの人出となった。
四月は花見、この時期の人出は毎年最大となる。前記五年に250万人という記録もあるが、他にも200万人を超える日が度々記録されている。
五月は、あちこちで祭りが催されているが、100万人を超えるような人出はないようだ。
六月は梅雨ということで、人出は少ない。ただ、九年の東郷元帥の国葬には184万人、18年の山本元帥の国葬にも50万人以上の人が出ている。
七月は花火と海水浴、花火の最大は七年の100万人、海水浴は十四年の150万人。八月も海水浴で、四年、五年に70万人という記録がある。
九月の人出は、関東大震災の発生した一日、四年と八年に被服厰跡には60万人もの人が参拝する。秋の行楽として、二年に二日間で200万人、十五年も二日間で300万人という人出があった。
十月は、お会式と秋の行楽。お会式は、池上本門寺の人出が抜きん出ており、九年、十一年に70万人も集まった。秋の行楽は、十四年に100万人の人出を記録している。
十一月は晴れが多く、明治節(三日)を中心にスポーツ大会、祝典などイベントが多く、大勢の市民が出かける。最も人出が多かったのは十五年で、二回も250万人を記録している。その他にも酉の市があり、七年には80万人もの人が訪れごった返したらしい。
十二月、年の瀬ということでレジャーだけでなく人出の多い月である。十三年には「銀ブラ」100万人があり、三の酉のあった十二年には数十万人の人出があった。
東京では、四季折々に様々なレジャーが行われていることが示された。ただ、大勢の人が活動しているため、市民誰もが参加していると思いがちだが、必ずしも全員が行っているわけではない。たとえば映画鑑賞、昭和十五年の延べ観客数は1億人に迫るもので、東京市の人口の十四倍あり、全員が見ていてもおかしくない。もちろん映画に興味のない人もいるし、経済的な問題で映画を見たくても見れない人も少なくない。そのため映画は、市民の半数以上は見ているものの、8割を超えることはないと思われる。
レジャーの参加率から見ると、総活動回数は映画に比べて少なくても、映画を凌ぐ割合で行われている活動に参詣・参拝がある。戦勝祈願や家内安全などのお参りをレジャーに含めることに異論もあるが、初詣は行楽気分が勝っており、やはりレジャー的な要素を否定できない。戦争が激しくなると、半ば動員されて参詣・参拝に訪れる人は増え、市民の8割近くが参詣・参拝をしたと思われる。
次に、せざるを得なかったために参加率が高くなった活動もある。それは、家庭菜園(農業というより園芸に近かった)で、参加率は半数を優に超えていただろう。もともと園芸は人気のあるレジャー、その上食料難で花が野菜に変わりさらに熱が入った。菜園づくりはかなり強制的であったが、収穫の喜びは何ものにも変えがたく、率先して行った人が少なくない。政府の指導を忠実に実施した数少ない活動であり、戦争が終わっても続けられた。
花見は四月の一時ではあるが、参加率は市民の半数を超えている。花見は、十二年頃から様々な制限が課せられたが人出は減少しなかった。アメリカとの戦争が始まると、ドンチャン騒ぎは禁止されたが、それでも春の行楽として十七年まで続いた。
ラジオの聴取もレジャーとして大きな位置を占めていた。ただ、ラジオの普及率は十一年に5割を超えるが、十五年でも7割には達しなかった。聴取者が増加したのは、レジャーが少なくなりラジオの娯楽番組を楽しもうとする人々が増えたことも見逃せない。
次に、市民の半数ほどの参加率がないものの、家族の誰かが行ったという25%以上の活動をあげると、観劇、官製イベント、動植物園などがある。官製イベントは数多く催され、延べ参加人員は1千万人以上あるように思われる。ただ、新聞等で発表される数をそのまま信じるのは疑問、主催者発表の参加人員は大半が水増しされている。また、参加市民も幅広い層のように書かれているが、動員される人は毎回同じような団体や組織から出されている。
その点、観劇の入場者数は正確であり、年間400万から800万人程もあるが、複数回見る人が多いことから市民の半数には至らない。
また動植物園の入園者数も信頼でき、上野動物園と小石川植物園の2園だけで、八年の時点で延べ200万人を超えている。
隣近所の誰かが行っているという参加率、10~25%の活動は数多くある。なかでも、紅葉狩等の行楽、海水浴・水泳、花火、博覧会、盆踊りなどは、年によっては25%以上となることもあるが、花火のように十三年以後禁止されたものもある。その他に、見世物、登山・遠足、釣り、野球(観戦含)なども市民の一割以上が行っている活動である。
町内の誰かが行っている程度の参加率、市民の1~10%が活動しているものとして、温泉旅行、相撲(見物含)、潮干狩り、囲碁・将棋・麻雀、野球相撲以外のスポーツ観戦などがある。これらの活動は、誰もが知ってはいるものの愛好家など一部の人に限られ、参加率は案外低い。
さらに特定な階層やマニアしか行っていない、参加率1%以下の活動として、スキー・スケート、競馬観戦、音楽会、ゴルフなどがある。
以上のように、レジャーの活動割合は案外低いもので、半数以上の人が行う活動は数えるほどしかない。この傾向は現代でも同じで、最も高い「外食」が60%をやっと超えるくらい。参加率だけで比較すると、戦前の方が参加率の高い活動が多いようだ。その理由は、現代のほうがレジャーの種類が多くあるため、選択肢は広くなり活動が分散するためであろう。
レジャーの種類は、現代の方が格段に多く、それも見て楽しむレジャーより、実際に行う活動が増えている。また、ゴルフのように参加率が大きく伸びた活動もあり、レジャーの活動時間も長くなっている。したがって、昭和初期のレジャーは、現代に比べて数量的にも劣っていたと言えそうである。特に昭和十七年から終戦までは、レジャーのすべてが制限、さらには禁止されるような状況であった。このような人々の楽しみを根こそぎ奪おうとした時代は、これまでの日本の歴史にはなかった。