茶庭 2 武野紹鴎

茶庭 2 武野紹鴎
武野紹鴎(1502~1555年)とガーデニング
  紹鴎は、珠光のすぐ後に続くように語られているが、珠光の亡くなった年に紹鴎は生まれている。直接的な師弟関係はあり得ないのに、あたかも珠光を引き継ぐ愛弟子のような記述が目につく。紹鴎の人物像(例として『武野紹鴎』矢部良明、『利休の師  武野紹鴎』武野宗延など)は、珠光に比べれば多少わかっているが、それでも江戸期に書かれたものによってかなり歪められている。紹鴎は、はじめ連歌をめざすが途中、茶の湯に転向し、「冷・凍・寂・枯」を思想的背景とする「侘数寄」の茶の湯を確立させたと言われている。そして、紹鴎が茶の湯で後世に名を残したのは、珠光と同じく茶道具の優れた「目利き」であったからだろう。紹鴎の茶の湯は、利休や織部などによって乗り越えられていったが、彼の目利きを介して世に紹介された茶道具は、江戸時代には押しも押されぬ名品となり、現代においてもその評価は依然と高い。そのようなことから茶の湯の中で、紹鴎はもう少し評価されて良いと思う。
 紹鴎は、二畳半という茶室、竹の茶入や茶杓などを創案し、侘数寄者のために提案はしているが、本格的な茶席の改革は利休によるものである。紹鴎が開いた茶会の記録はあまり残っていない。また、彼の茶の湯が弟子たちにどのように伝えられたかということは、山上宗二(1544~1590年)が辻玄哉(?~1576年)を第一の弟子として伝えている程度で事実はよくわからない。
  本題であるガーデニングに関することについて、まず花から見てみたい。紹鴎が開いた数少ない記録の茶会で使用された茶花は、
・天文十八年(1549)二月十三日(宗達他会記による)
かふらなしにうす色のつハきを入テ(蕪無花入を置き、薄い色合いの椿)
・天文二十三年(1554)正月二十八日(今井宗久茶湯日記抜書による)
床  古銅花瓶、長盆ニ、白椿生テ(後座床  古銅の花入に白椿)
・弘治元年(1555)十月二日(今井宗久茶湯日記抜書による)
槌ノ花入  紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ(紫銅無紋の槌の花入に水仙
  事例が少ないので、この事例だけでツバキとスイセンが好みであったとは断言はできないが、色彩的には淡い色の花を使った例が多かったものと思われる。
  紹鴎が色のない世界を目指していたのは、茶花だけではない。茶の湯についても同様で、詩的な情緒や世俗社会から「超俗」の茶の湯を確立させようとしたことからもわかる。庭に関して言えば、路地。客人を茶室に導く路地は、狭い通路を抜けて、世俗とは別世界へのプレリュードとした。それは、掃き清められた路地に、紅葉が散らされているという情緒的な庭ではなく、無表情ともいうべく「無」の緊張感がゆきわたる庭を指向していた。庭(坪の内)は、茶室と一体で捉えられるように考えてはいるが、情景を形成する植栽や庭石などを排除するものであった。
  当時、茶室は完全に独立した建物ではなかったが、紹鴎は茶室に対応する空間を意識していたことは確かだろう。そのような視点に立てば、路地、茶庭という庭園形成に結びつく、茶の湯のためだけの路地の萌芽となったと見ることができそうだ。なお、路地が茶庭としてつくられるようになるには、千利休の時代がくるまで待たなければならない。
イメージ 1    ただ当時の庭には、以後の茶庭に不可欠な灯篭や手水鉢などは存在していた。灯篭は、奈良時代前期の石灯篭が当麻寺奈良県葛城市)に現存する。また、『嵯峨流庭古法秘伝之書』に「石灯籠のすへ所作意品々有、高さに依って伝えありといへども強て寸尺にかかわらず、庭の広狭によりて見合べし、火影泉水へ移すなり、灯籠の柱四角なれば正面に見せて風情宜からず、少し背けて置けば見よかるべし。」とある。
 
   『細川三斎の茶書について』(川口恭子)のなかに『鷺絵源三郎久重覚書』(鷺絵源三郎・・・鷺絵源三郎は、奈良の塗師松屋の五代で松屋久好の子、久重である。南都鷺絵源三郎、南都源三郎とも、牧渓の筆の鷺の絵を所持していたことから、鷺絵源三郎といわれたという。なお、鷺絵源三郎とは松屋会記を著した松屋源三郎の事である。)があり・「そして最後に利休の切腹のこと、利休より譲り受けた石燈籠のこと、大徳寺高徳院へ石燈籠たつることを記している」
  この石灯篭は、高さ五尺八寸というから、1m76㎝、六角形石灯籠であり、南北朝時代のものとさせている。このことから、利休は、路地にかなり大きな石灯籠を使用していたのだろう。なお、この石灯籠は、細川三斎の墓標として現在も高徳院にある。 
イメージ 2  また、三斎は大きな石の手水鉢をあちこちに持ち運んだとされている。真偽のほどはあるが、路地の確立する前から、手水鉢は普通に使用されていたのではなかろうか。 
イメージ 3  手水鉢も寺社や庭に置かれていたことは確かである。鎌倉時代に作成された『法然上人絵伝』には、手水鉢が描かれている。
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 続日本絵巻大成より
 
茶の建築と庭(図説茶道大系)より
イメージ 5 茶庭以外に、灯篭と手水鉢が描かれたものが職人尽絵屏風などにある。出典は異なるものとして、次の三枚をあげたい。いずれも中世末期の経師の家で、その庭には灯篭と手水鉢がまるでセットのような配置で置かれている。庭(坪)に、灯篭と手水鉢の組み合わせは、路地(茶庭)の専売特許というような先入観は、再考する必要があるのではなかろうか。
職の風景(千葉県立中央博物館)より
イメージ 6日本庶民生活誌集積(三一書房)より
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