
江戸菊

私は別に、国粋主義者ではないが、日本の花としてもっと菊を世の中にアピールしても良いような気がする。たとえば、秋のシーズン、たとえば東京、いや日本のメインストリートともいえる日本橋や銀座の花壇に、なぜ、和菊を植えないのだろう。江戸菊は、フレンチマリーゴールドな


なお、誤解を招かないために捕捉しておくが、私は何も公園や街路に必ず和菊を植えなさい、と言っているわけではない。たとえば、市民がよく通る場所に、チューリップやパンジーなど、子供でも馴染みやすい花を植えることはそれはそれでよいと思う。また、幼稚園に球根ベコニア(金正日花)を植えることなども、否定する気はない。花の選択は、様々な理由があるのだから、絶対的な基準や決まりはない。とは言うものの、“日本橋の花壇に江戸菊を植えよう”というような声が挙がっても、取り上げられないことには、やはり一抹の寂しさ感じざるを得ない。
(以上は、環境緑化新聞http://www.interaction.co.jp/publication/news/第714号・2013年11月15日掲載)
美濃菊・紫蘭さん提供

こうした傾向に疑問を持ったのは、私だけではなさそうだ。それも、百年も前の明治時代に、外国人が苦言を呈していた。それは作家の小泉八雲である。八雲は、花や庭の鑑賞形態について、後の日本人が陥る危うさをすでに直観していたようだ。八雲は、日本で生活しているうちに、日本の感性を学びとり、その素晴らしさを実感したのだろう。『日本の庭』の中で次のような感想を語っている。
「とにかく、あの日本の生け花というものを学んだあとは、たれしも、西洋人の生花の飾り方に対する考えがじつに野蛮な、不趣味きわまるものだということを、つくづく考えさせられる。この所見は、けっして一時の軽率な随喜礼讃からうまれたものではない。日本の内地に長年住んでみて、そのうえではじめてうちたてられた確信である。そういうわたくしなども、ようやくこの頃になって、日本の生け花の師匠だけがその技術をこころえている、あのわずかひと枝生けただけの花の枝の、なんともいえない美しさ・・・が、どうやらわかるようになってきたくらいである。ところで、それがさてわかってみると、われわれ西洋人のいわゆるブーケ(花束)などというものは、それこそ不風流な花の殺生、色彩観念に対する冒涜、いや暴行であり、醜行であるとしか、今のわたくしには考えられないのである。(平井呈一/訳)」と述べている。 伊勢菊・紫蘭さん提供
さらに庭についても、「それとほぼ同じように、またそれとほぼ同じ理由で、日本の古い庭園がどんなものであるか、それを知ったうえで、われわれの国にある、あの金のかかった庭園を思いおこしてみると、あんな庭園こそは、人間の「富」というものが「自然」を侵害して、そこに不調和きわまるものをつくりあげ、その結果そこにどんな実を結びうるか、それを知らない無智さかげんを、思いきってさらけ出したものとよりほかに考えようがない。」とまで言い切っている。
このような発言は、小泉八雲だけではなく、建築家ジョサイア・コンドルも『THE FLORAL ART OF JAPAN(日本の生花)』」のなかで述べている。「日本の花 はじめに」では、日本人の美意識は、自然の素朴な美しさに触れる時に、際立って認められる。壮大さ、珍しさ、新奇さを追い求めたり、ごく身近な魅力には興味を持たないという贅沢好みは、ささやかな自然に共感を覚える日本人には受け入れられない。とコンドルは指摘している。 嵯峨菊
さらに、「いけばな はじめに」には、西洋の花飾りでは、花の取り合わせに秩序がないのに対し、日本の生花では色々な花入れに活けられた花飾りは、洗練された装飾美術となっている。西洋のブーケ、リース、ガーランドなどは、花や葉をこれでもかと言うくらいに詰め込み、華やかな塊にして美しさを示すのに対し、簡素な空間をもっとうとする日本の花飾りとは、美術的にまったく異質のものであると語っている。日本では美しい花の多くが樹木に咲くため、花を寄せ塊にするのが難しいことから、空間を生かした線状の構成意匠となると説明できよう。しかし、西洋式にまとめやすい草花に対しても、同様の手法を用いている。この花飾りの注目すべき特異性は、花の本質を楽しむ日本人の姿勢に関係する。西欧の愛好者は花そのものに重点をおくが、日本では、花を咲かせる樹木や草花のすべての特性にまで観賞の域を広げる。と、コンドルは、いけばなを通して、日本人の感性を述べている。そして、ウメやサクラを例にして、花と枝が形作る美しさ、さらには、枝や茎の線、葉形や表面のさまざまな質感、蕾や花の配置の妙にまで、日本人の自然観が存在していることを解説している。
「とにかく、あの日本の生け花というものを学んだあとは、たれしも、西洋人の生花の飾り方に対する考えがじつに野蛮な、不趣味きわまるものだということを、つくづく考えさせられる。この所見は、けっして一時の軽率な随喜礼讃からうまれたものではない。日本の内地に長年住んでみて、そのうえではじめてうちたてられた確信である。そういうわたくしなども、ようやくこの頃になって、日本の生け花の師匠だけがその技術をこころえている、あのわずかひと枝生けただけの花の枝の、なんともいえない美しさ・・・が、どうやらわかるようになってきたくらいである。ところで、それがさてわかってみると、われわれ西洋人のいわゆるブーケ(花束)などというものは、それこそ不風流な花の殺生、色彩観念に対する冒涜、いや暴行であり、醜行であるとしか、今のわたくしには考えられないのである。(平井呈一/訳)」と述べている。 伊勢菊・紫蘭さん提供

このような発言は、小泉八雲だけではなく、建築家ジョサイア・コンドルも『THE FLORAL ART OF JAPAN(日本の生花)』」のなかで述べている。「日本の花 はじめに」では、日本人の美意識は、自然の素朴な美しさに触れる時に、際立って認められる。壮大さ、珍しさ、新奇さを追い求めたり、ごく身近な魅力には興味を持たないという贅沢好みは、ささやかな自然に共感を覚える日本人には受け入れられない。とコンドルは指摘している。 嵯峨菊
