和のガーデニング 4

和のガーデニング  4
日本らしい花で『おもてなし』
イメージ 1 十一月は、十月から続くキクのシーズン。旧暦の九月九日は重陽節句、菊の節句とも呼ばれている。昔は宮中はもとより、庶民の間でも様々な行事が行なわれていたが、現代では少々縁遠い節句になってしまったようだ。かつてはあちこちで飾られていた菊人形、都内でも三十箇所近くもあったが、今では谷中菊まつり、文京菊まつり(写真・湯島天神)、すがも中山道菊まつり、でしか見ることができなくなった。それでも、菊花を楽しむ催しは、新宿御苑をはじめ、各地で菊の展示会は続いている。
江戸菊
 
イメージ 2  菊を栽培したり、展示会へ出品している人に聞くと、菊への関心は以前にも増してさかんになっていると答える。しかし、実感としては広く浸透しているようには感じられない。特に、和菊(江戸時代からの改良で観賞用として発展した品種)については、洋菊(西欧で育種され改良された品種)に押されその認知度は年々低下しているように感じられる。
  私は別に、国粋主義者ではないが、日本の花としてもっと菊を世の中にアピールしても良いような気がする。たとえば、秋のシーズン、たとえば東京、いや日本のメインストリートともいえる日本橋や銀座の花壇に、なぜ、和菊を植えないのだろう。江戸菊は、フレンチマリーゴールドイメージ 3どと比べて、インパクトでも決して見劣りはしない。花の評価は、結局は好みで決まることなので一概に決めつけることはできないが、日本橋に江戸菊という取り合わせは最も似合う花ではないだろうか。さらに言えば、外国から日本橋を訪れる観光客を、日本を感じさせる花で出迎えることは、礼儀の一つではなかろうか。たとえば、沖縄那覇空港に着いて、ブーゲンビリヤやハイビスカスではなく、南国らしさを感じられないチューリップやコスモスが出迎えたりしたら、観光気分は盛り上がるだろうか。今、「おもてなし」という言葉が盛んに使われているが、ガーデニングのジャンルでも、日本らしい花をもっと色々なところで見ることができるようにしたいと思う。                                                                                    江戸菊・上下写真紫蘭さん提供
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 なお、誤解を招かないために捕捉しておくが、私は何も公園や街路に必ず和菊を植えなさい、と言っているわけではない。たとえば、市民がよく通る場所に、チューリップやパンジーなど、子供でも馴染みやすい花を植えることはそれはそれでよいと思う。また、幼稚園に球根ベコニア(金正日花)を植えることなども、否定する気はない。花の選択は、様々な理由があるのだから、絶対的な基準や決まりはない。とは言うものの、“日本橋の花壇に江戸菊を植えよう”というような声が挙がっても、取り上げられないことには、やはり一抹の寂しさ感じざるを得ない。
(以上は、環境緑化新聞http://www.interaction.co.jp/publication/news/第714号・2013年11月15日掲載)
                                                                                                     美濃菊・紫蘭さん提供
イメージ 7 今日のガーデニングで求められる美しさとは、人目を引くこと、見る人を圧倒するインパクトがあることだけだろうか。日本風の庭園に花を植える際も、色とりどりの外来種を平気で植えてしまう。花を飾るなら満艦飾の花束とでもいうような形態、そんなガーデニングが幅を効かせている。このようなガーデニングを、これからも推し進めることが果たして望ましいことだろうか。もちろん、花の美しさを追求することに異論はないが、そうした風潮にはやはり違和感を感じる。 
  こうした傾向に疑問を持ったのは、私だけではなさそうだ。それも、百年も前の明治時代に、外国人が苦言を呈していた。それは作家の小泉八雲である。八雲は、花や庭の鑑賞形態について、後の日本人が陥る危うさをすでに直観していたようだ。八雲は、日本で生活しているうちに、日本の感性を学びとり、その素晴らしさを実感したのだろう。『日本の庭』の中で次のような感想を語っている。
  「とにかく、あの日本の生け花というものを学んだあとは、たれしも、西洋人の生花の飾り方に対する考えがじつに野蛮な、不趣味きわまるものだということを、つくづく考えさせられる。この所見は、けっして一時の軽率な随喜礼讃からうまれたものではない。日本の内地に長年住んでみて、そのうえではじめてうちたてられた確信である。そういうわたくしなども、ようやくこの頃になって、日本の生け花の師匠だけがその技術をこころえている、あのわずかひと枝生けただけの花の枝の、なんともいえない美しさ・・・が、どうやらわかるようになってきたくらいである。ところで、それがさてわかってみると、われわれ西洋人のいわゆるブーケ(花束)などというものは、それこそ不風流な花の殺生、色彩観念に対する冒涜、いや暴行であり、醜行であるとしか、今のわたくしには考えられないのである。(平井呈一/訳)」と述べている。                                                                               伊勢菊・紫蘭さん提供
イメージ 5 さらに庭についても、「それとほぼ同じように、またそれとほぼ同じ理由で、日本の古い庭園がどんなものであるか、それを知ったうえで、われわれの国にある、あの金のかかった庭園を思いおこしてみると、あんな庭園こそは、人間の「富」というものが「自然」を侵害して、そこに不調和きわまるものをつくりあげ、その結果そこにどんな実を結びうるか、それを知らない無智さかげんを、思いきってさらけ出したものとよりほかに考えようがない。」とまで言い切っている。
  このような発言は、小泉八雲だけではなく、建築家ジョサイア・コンドルも『THE FLORAL ART OF JAPAN(日本の生花)』」のなかで述べている。「日本の花  はじめに」では、日本人の美意識は、自然の素朴な美しさに触れる時に、際立って認められる。壮大さ、珍しさ、新奇さを追い求めたり、ごく身近な魅力には興味を持たないという贅沢好みは、ささやかな自然に共感を覚える日本人には受け入れられない。とコンドルは指摘している。                                                                                                               嵯峨菊
イメージ 6  さらに、「いけばな  はじめに」には、西洋の花飾りでは、花の取り合わせに秩序がないのに対し、日本の生花では色々な花入れに活けられた花飾りは、洗練された装飾美術となっている。西洋のブーケ、リース、ガーランドなどは、花や葉をこれでもかと言うくらいに詰め込み、華やかな塊にして美しさを示すのに対し、簡素な空間をもっとうとする日本の花飾りとは、美術的にまったく異質のものであると語っている。日本では美しい花の多くが樹木に咲くため、花を寄せ塊にするのが難しいことから、空間を生かした線状の構成意匠となると説明できよう。しかし、西洋式にまとめやすい草花に対しても、同様の手法を用いている。この花飾りの注目すべき特異性は、花の本質を楽しむ日本人の姿勢に関係する。西欧の愛好者は花そのものに重点をおくが、日本では、花を咲かせる樹木や草花のすべての特性にまで観賞の域を広げる。と、コンドルは、いけばなを通して、日本人の感性を述べている。そして、ウメやサクラを例にして、花と枝が形作る美しさ、さらには、枝や茎の線、葉形や表面のさまざまな質感、蕾や花の配置の妙にまで、日本人の自然観が存在していることを解説している。