信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング

信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング

信長の庭づくり
 戦国時代の錚々たる武将とガーデニング、この取り合せはあまり似つかわしくないと思われるかもしれない。が、実際に、信長・秀吉をはじめ武将らのガーデニングへの関心は、現代の政財界のリーダーとは比較しようもないほど高かった。
 彼らは言うまでもなく、城造りに長けていたのが、庭造りは地形を読み、土地を造形するという点で、城造りと共通する。ゆえに武将たちは、城を造る際、戦いを念頭において築くと共に威厳や美しさを考慮し、城内の造園にも気を抜くことはなかった。庭への関心は植栽にも表われ、どの城も武将たちの好みの珍しい樹木や美しい花で彩られた。
イメージ 1 まず触れなければならないのが織田信長である。信長の業績は多岐にわたるなかで、茶の湯に比べてガーデニングについてはあまり注目されていない。信長は、無骨な武士たちに花への関心を向けさせ、庭づくりにも一方ならぬ影響を及ぼしている。例えば、信長は岐阜城に清雅な庭を造ったとされ、その遺構が発見されている。
 http://www.nobunaga-kyokan.jp/sisekigifujyouato.html
http://www.city.gifu.lg.jp/c/40124935/40124935.html 
 http://castles.noblog.net/blog/e/10748631.html
 また、永禄十一年(1568年11月)応仁の乱によって焼かれた西芳寺池庭の再興を許可、二条御所の築庭(1569年)などにも関わっている。天正四年(1576)には、「安土山の麓まで運び寄せたが、蛇石という名石で、とてつもない大石であったから、どうしても山へ引き上げられなかった。しかし、羽柴秀吉滝川一益丹羽長秀の三人が指揮して、人足一万人を掛からせ、昼夜三日がかりで引き上げた」。また同年「関白二条晴良の屋敷が、幸い空き地となった。信長は泉水や庭園の眺めを面白く思い、ここに邸宅を建てることにした」。
 二条御所造営にあたって、「永禄十二年二月二十七日、辰の一点に着工の儀式を執行した。・・・御殿の格式を高めるように、しかるべき金銀を飾り、庭には池・流水・築山を造った。さらに、『細川殿の邸に昔からある藤戸石という大石を、お庭に置こう』といって、信長自身が出向き、その名石を綾錦で包み、色々な花で飾りたて、大綱を何本もつけて、笛・太鼓・鼓で囃したて、信長が指揮して、たちまちのうちに御所の庭に引き入れさした。これと並んで、東山の慈照院の庭に一年ほど置かれている九山八海という、全国に知れ渡った名石を、これもまた取り寄せて庭に据えさせた。その他にも京都の内外から名石名木を集め、眺めの良いように工夫を凝らし、馬場には桜を植えて桜馬場と名付けるなど、残ることなく完全に造らせた」。
 この時の模様は、陣羽織に花笠という信長のもとに、藤戸石は錦の布に覆われ、京都市中を笛太鼓を囃子に乗った数千の人々によって引かれた。このパレードによって藤戸石は、一躍天下に知られる名石となった。信長が亡くなると早速、秀吉は自分のものにして、聚落第に運び込んだという謂われのある名石である。
 藤戸石のパレードは、永禄十二年(1569)に催されている。当時の状況を見ると、織田信長の武力を後ろ盾にした足利義昭は、将軍に就任した。しかし、三好三人衆によって六条本圀寺の居所が襲撃された。幸い、京にいた信長家臣団などの奮戦によって防戦した。そこで、信長は義昭のため、強固な城造ろうとして二条城に築城を決めた。城は、約四百メートル四方の敷地に二重の堀と三重の「天主」を備える邸宅とした。
 工事は、信長自身が普請総奉行として陣頭指揮をした。永禄十二年の二月初旬に石垣積みがはじまり、外堀の改修などとこの築城はなんと70日ほどで行われた。そこで信長が見せた光景は、急いで完成させるために、これまでの常識をひっくり返すもの。信長など身分の高い人が普請の視察をすれば、働いている人(地下じげ)は、草履を脱いで土下座、通過まで顔を伏せたままであった。ところが信長は、工事の進行を優先し無駄とし、戦場と同じようにふるまえとした。そこでの信長は、食事さえも作業員と同じで握り飯と汁というように立ちふるまった。たとえ信長の前であっても、作業を中断することなく、見物に集まった市井の人々にまでも、ありのままの状況を見せたという。
 旧管領細川藤賢の旧邸からの「藤戸石」が鳴り物入りのパレードは、その過程で催された。藤戸石は、錦の布に覆われ、花で飾りつけられ、紅白の大綱で曳けるようにして、織田家の武将たちをはじめ、京の町びとなど数千人に曳かせた。このパレードは、信長自らが先頭に立って拍子をとるという熱の入りよう。この祇園祭の山鉾曳きのようなパレードは評判になり、築城を一目見ようとする人が、京はもちろん周辺各地から押し寄せ、何と十万を越えたという。連日集まることから、ついには圧死する者まで出たという。
イメージ 3 信長は安土城にも庭園を造った。その庭にはソテツが植えられ、城内の庭園にソテツを植栽されたのは、これが初と伝えられる。これはおそらく、南蛮好みの信長の指示によるものだろう。この蘇鉄については、
http://ameblo.jp/rallygrass/entry-10552095668.htmlにも紹介されている。
 ソテツについては、「愛玩する献上品のソテツの鉢植を光秀の妹と家来が損傷した行為について、度外れた叱責と恥辱が加えられた」という逸話も残っている。ソテツに絡む話しは、浄瑠璃『絵本大功記』の発端、「安土の段」に詳しい。それは、武智光秀(明智光秀)が本能寺の謀叛にいたる経緯は、大庭のソテツをめぐるトラブルが原因で、長春(信長)から耐え難い屈辱を受けた、その復讐に及んで決行したとなっている。信長にソテツという話しは、いかにも南蛮好みの信長らしく、真偽のほどはともかく、在来の樹木ではなくソテツが登場することで、この話はぐっと現地味を帯びてくるように感じられる。
イメージ 2 では、信長好みの花は何か。信長は、天正元年(1573)、今井宗久らを招いて京都妙覚寺において茶会を催している。この会記には「カフラナシ花瓶 ヌリ板ニ 白梅沢山ニ、上様御生被成候」と、信長が白いウメを何本も生けたという記載がある。花瓶は、本能寺の変の前日(天正十年六月一日)、信長最後の茶会に「つくも茄子」などの名物と共に使われたものである。花を生ける際には、宗久を通じて知遇を得た利休が係わったようだが、花の選択には、当然、信長の嗜好が強く表れているものと思われる。なお、天正元年は、織田信長によって十五代将軍義昭が京都から追放され、室町幕府が二百三十七年間の幕をおろした。
 信長の性格からいってウメの花、それも白梅というのは、どことなくそぐわない印象をうける。ただ、安土城天守各階の部屋が、いづれも金壁障壁画で飾られていたのに対し、一階にある信長の居間だけは、ウメを描いた墨絵であった。ともすると、気性の激しさばかりが強調される信長だが、その実は「白梅」に象徴されるような静謐さを求めてやまない一面があったのかもしれない。
 さて、信長は、戦乱の続くなかでも、茶の湯を楽しみ、「蕪無の花入」など天下の名物といわれた茶道具を集めたことは有名である。また、茶会を主催することをステータスにし、「御茶湯御政道」を定め武勲や功績のあった人に許している。ちなみに、秀吉は天正六年の春に茶会を開くことが許されている。信長の茶の湯に招かれるということは、それ自体が武将や公家たちにとって名誉なことであった。となると、無骨な武将も、茶器と共に茶花の知識がなければ、信長の機嫌を損じることにもなりかねない。まして、信長が自ら活けたかもしれない茶花について、名前を知らないでは済まされない。
 かくして、天下は信長の意向を無視できないようになった。したがって、茶会に招かれた大名をはじめ武士は、こぞって花を愛で、庭づくりに情熱を競うようになった。やがて、そうした風潮が富豪町人、さらには下層の人々へ広がって行った。流行を支えるしくみを考える際、大きな鍵となるのは、時のリーダーとなる人の趣味・嗜好である。彼らがガーデニングに関心を示し、自ら園芸を楽しむ姿を見せれば、下の者はすべからくそれに従い、やがて大きなうねりとなって、社会全体を動かしていく。