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…にとってはまたとない娯楽の拠点であった。 ただ、原寸大で再現した庶民の街とはいっても、一点だけ本物の町と違っていた。それは、「御町屋」には町人が一人もいなかったことだ。なぜなら、武士たちが「素」に戻って遊んでいる様子は、庶民には決して見せられないものであったから。「大名家の施設テーマパーク」ともいうべき場所で、高級武士たちは文字通り羽織袴を脱ぎ捨て、ごっこ遊びに興じていた。 さらに「御町屋」は、日頃自由のきかない高級武士にとって、庶民の間でちょっとした流行になっていた「旅行趣…
…む。もちろん当時は、娯楽が極端に少なかったから、暇つぶしに開帳に出かける人が多かったとも言えるが、神仏を信じその慈悲にすがろうという気持ちが根底にあったのは事実のようだ。 上は、祈祷によって病を直そうとする将軍から、下は日々朝参りを欠かさない庶民まで、宗教活動が人々の日常生活に深く浸透していた江戸ならではの風俗といえる。 とはいっても、宗教には必ず遊楽がついてまわるのが当時の特徴でもある。開帳にも多くの茶店や床店、力持ちや独楽の曲芸といった見世物小屋などが立ち並び、庶民にとっ…
…む。もちろん当時は、娯楽が極端に少なかったから、暇つぶしに開帳に出かける人が多かったとも言えるが、神仏を信じその慈悲にすがろうという気持ちが根底にあったのは事実のようだ。 上は、祈祷によって病を直そうとする将軍から、下は日々朝参りを欠かさない庶民まで、宗教活動が人々の日常生活に深く浸透していた江戸ならではの風俗といえる。 とはいっても、宗教には必ず遊楽がついてまわるのが当時の特徴でもある。開帳にも多くの茶店や床店、力持ちや独楽の曲芸といった見世物小屋などが立ち並び、庶民にとっ…
…商売の仕方は、現代の娯楽産業の従事者のそれとは大きく異なる。まず、遊びの代価として金をもらうことを明言していない。客が満足し、自主的に金や食べ物をくれるのを待ってそれを受け取る。また、遊びと一口に言っても、現代の遊びのイメージとは趣が違う。たとえば、ストレートに楽しさを提供することのほかに、不安を取り除いたり、びっくりさせたり、見るものに優越感を与えたり、時によっては「だまし」と紙一重というようなものも少なくなかった。 このように江戸時代初期には、庶民に近づいて、ちょっと猥雑…
…する。 当時、庶民に娯楽を提供していた人々と言えば、経済的、社会的に地位の低い人々、下賤な者として社会的な差別を受けていた人々が圧倒的に多かった。イエズス会が編纂した『日本大文典』(一六〇四年)には、下賤な者として社会的差別を受けている人々に、猿楽、田楽、ささら説経、鉢こくりなどの呼称が挙げられている。 しかも、猿楽の中には太夫をはじめ鼓打、狂言、大鼓打、脇、地謡、笛などが含まれていたから、芸能に携わるほとんどの人々が賤民的な地位に置かれていたといってもいいくらいだ。歌舞伎の…
…吉原でもはつきりと現われてきた。もともと揚屋は、畳をあげると能舞台に早変わりするようになっていて、大名らが登楼してはよく能を演じていた。それが宝暦年間(1751~64年)には、能舞台も揚屋も姿を消した。この事実もまた、吉原の主役が武士から町人へ移っていったことを示している。 娯楽の場における勢力争いは、すなわち世上での勢力争いでもある。日々を楽しく暮らしている者が真の勝者だとしたら、表向きはは武士の方が偉くても、実質的に人生を謳歌していた町人の方が勝者だと言えるかもしれない。
…れない。 もっとも、娯楽には縁の薄かった町人に、こともあろうに幕府がそのおもしろさを教えてしまったという側面も否定できない。お上から与えられる、たまの楽しみで満足しているうちはいいが、町人も力をつけてくると、その程度の遊びでは満足しなくなります。当時は予想もしなかったであろう、江戸中期以降の町人の盛んな遊びっぷりは、実は幕府自身が種をまいた結果と言えなくもない。 実際、町人の楽しむ様子を余裕をもってながめていられたのは、そんなに長い期間ではなかった。間もなく、町人が贅沢したり…
…民)が、気軽に行える娯楽として最も人気があったのは、見世物であろう。歌舞伎を見世物を同列と論じたら、現代では顰蹙を買うかもしれない。でも江戸時代の初めの頃は、似たような出し物として受け取られていたようである。違いは、色気に誘われるか、好奇心が先にあるかというくらいだろうか。では、当時の歌舞伎と見世物の状況を覗いてみよう。江戸で初めて見世物の興行が行われたのも、この元吉原においてであった。遊里は同時に盛り場でもあったわけだが、歌舞伎と他の見世物との間に、まだきちんとした区別がな…
…を置き、町人の生活や娯楽にはほとんど関心を示さなかった。 逆に言えば、まだ町人は目立つような存在ではなく、遊んだり、派手に金を使ったりということとは無縁であった。そのため、幕府としても警戒したり、取り締まったりすることはなかった。ことを起こしていたのは武士で、銭湯で喧嘩をしたので銭湯通いが禁止される。銭湯というと庶民の憩いの場という思い込みがちだが、最初の頃に通っていたのは武士が多かったようである。ちなみに江戸市中に銭湯ができたのは、天正十九年(1591年)といわれている。な…
…類からすれば、園芸は娯楽(leisure)の中の、その一分野にすぎない。とはいえ、時代によっては世相を反映する事象として重要な位置を占めていた。江戸時代の園芸は、現代よりずっと社会的な役割や存在感が大きかった。 ここで、園芸を娯楽・行楽などとの関連から位置づけする必要がある。園芸が娯楽として、当時の社会にどのよう受け入れられていたか。どのような人々によって、どのような広がりを持って、いわばその人気度を示したい。園芸は娯楽ではあるが、単なる娯楽にとどまらず世相を反映するものとし…
…。今と違って、大した娯楽もない時代である。しかも各々の家の経済事情に合わせて楽しむことのできる「花見」は我々の想像以上に人々の気持ちを高揚させるものだったらしい。 何日も前から、晴れ着や髪の準備をととのえ、持ちものや弁当にも趣向をこらし、向島に向かう。堤の下に幔幕を張りめぐらせて、その中では、緋色の毛氈の敷かれた上に、晴れ着に着飾った娘たちが花開いていた。そんな花見の様子は明治の初め頃まで続いていた。東京医学校の教授であるベルツは、「日頃あまり美しいとは思わない女の人が、今日…
…こしている。さしたる娯楽のなかった時代とはいえ、二度、三度と流行を復活させているのには驚かされる。これはやはり、奇抜さだけではなく、優れた栽培技術と植木屋の余技といえども、手を抜かずに見事な細工を披露しうる芸術性があったからこそであろう。 ・役者に似せた菊人形が大当たり 嘉永期に入ると、菊人形レースは、完全にもう団子坂勢の一人勝ちになっていった。「団子坂の菊人形」が従来のものと最も大きく異なる点は、客から見物料をとったことである。若月紫蘭著『東京年中行事』には、明治維新の混乱…