菊 の検索結果:

江戸のくだもの その6

…源平、げんじぐるま、菊桃、きくもも、白桃、しろほうきもも、さんせつ、緋桃、さがみしだれ、ざんせつしだれ、あめんどうなどが記されている。これらの桃は、大半が花の観賞で、秋桃や餅子桃などが食べられるとある。 江戸では、大半が観賞用のモモが栽培されていたのだろう。『草木錦葉集』には「基蜩庭生もも」が描かれている。 林檎 リンゴと言っても、現代のリンゴとは異なり、ワリンゴである。西洋から入ってきたリンゴに対し既存のリンゴということで区別するために、ワリンゴというようになった。したがっ…

茶庭 3 豊臣秀吉その1

…われる。そのような中で、花について場所と日付が確認できるのは、天正十五年十月二十一日に大坂城の山里丸で催した茶会の小車、天正十八年九月二十三日に聚落第で催した茶会の野菊など、その事例は少ない。 聚落第での話は、秀吉が天目茶碗の中に肩衝茶入を入れ、その間に野菊を一本差し込んだ。利休は、野菊をさりげなく取り扱い、秀吉の企てに翻弄されることなく茶会を進めたという。これら茶会での花にまつわる話の多くは、利休の巧妙譚に結びついており、秀吉の花の好みを探るには物足りないように感じる。

ガーデニングを楽しむ 3

…た松平頼寛が綴った『菊経』を見るとそれが良くわかる。 作庭書についても、江戸時代に数多く書かれたが、事情が少し違うような気がする。それは、桂離宮を造営した八条宮智仁・智忠親王、修学院離宮を造営した後水尾上皇、さらには江戸時代の作庭家を代表する小堀遠州らが不思議なことに作庭書を残していないからである。作庭家にとって作品は重要だが、作庭過程や技法を書き残す必要性はないと考えていたのではなかろうか。 日本で最も古い庭園書として『作庭記』がある。これは平安時代の庭園、寝殿造の作庭に関…

ガーデニングを楽しむ 2

…が肝要、松平頼寛も『菊経』で述べている。江戸時代の園芸人たちは、植物を自分の意のままに育てようとはと思っていない。むろん、丹精はこめるが、できる限りのことをしたら、後は自然の力に委ねていたようだ。また、彼らの書物からは、植物を育てているというより、育てさせてもらっているというくらいの謙虚な気持ちが必要であるとの思いが伝わってくる。変化朝顔について調べていくと、園芸に携わった人々は、人の力の限界を知った上で、天の力、時の運に任せるといった非常に謙虚な一面を持っていたことがわかる…

ガーデニングを楽しむ 1

…中期頃)にかけては、菊に関連した園芸書が多く出された。この頃の園芸書には、サクラ(那波活所『桜譜』など)、キク(志水閑事『菊花羽二重』など)、カエデ(伊藤伊兵衛政武『歌仙百色紅葉集』など)をはじめ、園芸品種として作られた植物を数多く紹介している本が多い。 宝暦年間(18世紀後半)になると、園芸植物の写実は、非常に精巧になった。たとえば、安永年間(1775年)に訪日し、絵本『野山草』(橘保国)を手に入れたツュンベリーは、「日本の植物について優美で判然とした図を載せている」(「江…

プラントハンター その2

…で一番珍しいものは、菊の花でつくった人形であったと述べている。数千の花を使って作られた菊人形の美人が、微笑を浮べて、茶屋や休憩所から出て来る客をしばしば驚かせていたと、当時の菊人形人気を解説している。 さらに、染井や団子坂の苗樹園のいちじるしい特色は、多彩な葉をもつ観葉植物が豊富にあることだ。ヨーロッパの人々が自然の珍しい斑入りの葉を持つ植物を賞賛し、興味をもつようになったのは、ここ数年のことである。これに反して、日本では千年も前から、高尚な趣味を育ててきたといっていいだろう…

江戸のサクラと花見 その2

…種・エドヒガン 里桜及び大島桜・サトザクラ(ボタンザクラ) 変種・普賢象 ・兼六園菊桜 cibaさん提供 http://photozou.jp/photo/show/188100/36998835 ・オオシマザクラ 染井吉野及び雑種と類種・ソメイヨシノ 栽培種・ナデン(チャワンザクラ) 野生種・ミネザクラ ・マメザクラ ・カスミザクラ ・ウワミズザクラ ・イヌザクラ

江戸時代のハーブ

…1829)。チコリ(菊苦菜)・レモン(檸檬)の渡来は、嘉永年間(1848~1854)。文献に記されたサフランは、なんと100年後の文久年間(1861~1864)になってようやく渡来したことになっている。 それにしても、素敵なハーブが数多く渡来しているのに、なぜ日本で食用化されなかったのだろう。その理由は、ハーブに相性の良い乳製品や肉を日本人があまり食べなかったこと。また、在来の食べ物が豊富で、特に野菜は種類が多い(百種以上)上に美味く、安価であったためと言われている。 また、…

江戸の植木屋  その2

…。幕府の京都御所への菊苗進献の使者に命じられたり、江戸城西の丸の造菊や吹上御所での菊御用など、キクに関する限り御用商人の栄誉をほしいままにしていた。 ・職域を広げる植木屋たち 東都歳時記より 江戸近郊にある植木屋は、四季折々の花をより美しく見せるために、土地の高低差を作ったり、趣のある東屋を設けたり、意匠を凝らした鉢や壺を並べたり・・とそれぞれ演出に余念がなかった。また中には、寺島村の植木屋甚平のように、菊花壇や名木奇石の蒐集のみならず、「菊のやと號して、會席料理屋を渡世とす…

江戸の植木屋 その1

…に、植木屋がどこにあったかということだが、巣鴨、染井、駒込、小石川、千駄木、田畑、根岸、三河島、本所、向島、亀井戸、また四谷、赤坂、青山、麻布、芝、目黒など江戸周辺に数多く分布していた。そして現代でも、たとえば、郊外の大型園芸ショップなどが一種行楽地化しているように、当時も大勢の人々が詰めかけたようだ。来訪者は上は将軍から下は長屋住まいの庶民までと幅広く、見る対象もサクラソウのような草花から、ボタン、ツツジ、ハナショウブ、アサガオ、そして菊人形……と、四季折々の花を楽しんだ。

ガーデニングバブル

…デニングバブル ・「菊合わせ」は真剣勝負の場 徳川三代の無類の花好きに象徴されるように、江戸時代に入ってからもしばらくは、身分の高い人々の嗜好によって花の流行が決定付けられた。寛永年間に流行した椿や牡丹はその代表といえる。 が、江戸も元禄期になると、世はまさに黄金万能の時代。自由経済の中で成功を修めた「勝ち組」の町人たちは、旺盛な財力を背に、誰に遠慮することもなく気儘で贅沢な生活を送るようになる。饅頭一個、茶漬け一杯に目を剥くような大金を投じたり、芝居見物に行くのに、大名顔負…

大江戸野菜事情・続及び捕捉

…紅花隠元豆、チコリ(菊苦菜)、レモン(檸檬子)が渡来する 萬延元年(1860) イギリス人ロバート・フォーチュン来朝し、数多くの園芸植物を収集する 文久2年(1862) 幕府が米国から種子を輸入 文久年間 福井藩主松平公の江戸巣鴨別邸に米国種苹果(リンゴ)を植栽する 文久年間 オランダからオリーブ(橄欖樹)渡来 亀戸周辺で亀戸ダイコンが盛んにつくられた ☆「江戸野菜」とは 江戸時代に江戸や近郊の野菜づくりが盛んな地域で改良された野菜の品種全体を「江戸野菜」と呼んでいる。 たと…

江戸のオープンガーデン

…この屋敷内には藤棚や菊花壇、「田舎に遊ぶ心地がしておもしろい」畑地、小舟二艘をつないだ池、名水と噂の高い湧水の出る渓間、台所付きの小亭など様々な趣向があり見るものを飽きさせない。もちろん、花や月が見事な時分には、小亭で茶席や酒宴も開かれていたようで、まさしく究極のレジャ-スタイルが江戸時代すでに存在していたといえる。 ・毎月巳の日はオ-プンガ-デン・デ- 先の播磨守上屋敷の隣町に当たる大塚吹上という所に、「松平大学頭」という殿様の上屋敷があった。こちらは三町四方というから、9…

丁子菊から菊人形へ 1

丁子菊から菊人形へ 1 ・菊の魅力 キクを皇室の紋所とし、民間の菊花紋使用が禁止されたのは、意外に新しく明治二年(1869年)になってからのことである。もっとも、使用した歴史自体は古く、鎌倉時代初期(十三世紀初め)に後鳥羽上皇が衣服から懐紙にいたるまで菊花紋を散らしたという事例が残っている。さらに、その後の後深草天皇、後宇多天皇なども好んで菊花紋を用い、そのころから、徐々に皇室の花紋として定着したらしい。ただし、当時は武家社会で朝廷の権威、権力が低下しており、徳川家の葵の御紋…

丁子菊から菊人形へ 2

丁子菊から菊人形へ 2 ・何度も出現した「菊人形」ブーム 江戸時代、盛んに行われた「菊合わせ」が、純粋に栽培技術を競う催しの代表格であるとすれば、秋の風物詩として今も当時の面影を残す「菊人形」は技術に加えて表現力、企画力などが要求されるよりビジュアルな催しであったと言えるだろう。 現代ではさすがに「菊人形」だけで人を呼ぶのはかなりつらそうである。福島・二本松の「菊人形」のように知名度の高いものならまだしも、その辺の神社で目にする「菊人形」は、凝った作りの物も少なく、せいぜい、…