庭園 の検索結果:

茶庭 2 武野紹鴎

…ば、路地、茶庭という庭園形成に結びつく、茶の湯のためだけの路地の萌芽となったと見ることができそうだ。なお、路地が茶庭としてつくられるようになるには、千利休の時代がくるまで待たなければならない。 ただ当時の庭には、以後の茶庭に不可欠な灯篭や手水鉢などは存在していた。灯篭は、奈良時代前期の石灯篭が当麻寺(奈良県葛城市)に現存する。また、『嵯峨流庭古法秘伝之書』に「石灯籠のすへ所作意品々有、高さに依って伝えありといへども強て寸尺にかかわらず、庭の広狭によりて見合べし、火影泉水へ移す…

茶庭 1 村田珠光

…いう、日本ならではの庭園様式となっている。 そこで、わび茶の成立から茶庭の誕生に関与した茶人について少し紹介してみたい。その始まりは室町時代の茶人である珠光、紹鴎、利休、織部、遠州という人物の流れに沿って進めることにするが、師弟関係や思想的な継続について色々な見解や異論があることも付け加えておきたい。 村田珠光(1423?~1502年)とガーデニング 珠光は、室町時代中期の茶人。能阿弥の弟子となり華や茶を学び、「わび茶」の創始者とされる。ただし、珠光に関する資料は少ないので、…

水琴窟 2

…広がる緑豊かな美しい庭園があり、この水琴亭に水琴窟があれば、その名の起源は一気に明治へと遡り、さらに江戸時代へと進む可能性もあった。が、水琴亭には今も日本庭園はあるものの、水琴窟は造られていなかった。その名の由来についても、いつ頃からであるか、確固たる資料にもとづく話を得ることはできなかった。しかし、水琴亭についての「美濃文化自然誌調査会」の資料(出典『番号:9-1 路線名:岐阜街道 名称:伊奈波街道の古今(美味求真)の水琴 米屋町「料亭の元祖」』)には、水琴亭の名の起源が江…

水琴窟 1

…的として創案された、庭園施設における同じ系統の用語に「洞水門」があります。現在、伝承される「水琴窟」はそれを起源としたものと考えられていますが、起源についての詳細は依然として不明です。「水琴窟」の語の発祥についても同様です。」ともフォーラムは述べている。 水琴窟は、いつ、誰が、なぜ、どのように創案したかなど、謎が多い。それだけに水琴窟のルーツを探ることには、興味が尽きない。謎が多いのは、水琴窟がいくつも発見されているにもかかわらず、残されている文献・資料がきわめて少ないからで…

ガーデニングを楽しむ 3

…か。 日本で最も古い庭園書として『作庭記』がある。これは平安時代の庭園、寝殿造の作庭に関して書かれているものだが、現代にも通じるところがいくつもある。この書は、藤原氏の秘伝とされていた無名の作庭書を橘俊綱が編纂したというのが定説だ。これが『作庭記』と呼ばれるようになったのは江戸時代の中頃からで、それまでは『前栽秘抄』と呼ばれていた。その『前栽秘抄』という名も鎌倉時代に付けられたものらしく、俊綱本人が記したものではないらしい。 『作庭記』は、庭づくりの心構えに始まり、庭をつくる…

馬琴のガーデニング 1

…ず思い浮かぶのは大名庭園であろう。現代でも公園として残っている小石川後楽園、六義園、浜離宮庭園など、その数は数百にもおよんだ。大名は、上屋敷・中屋敷・下屋敷を持っており、小大名でも下屋敷を二箇所、大大名ともなれば五箇所も所有していた。上屋敷に庭園があることは少なく、十数カ所にすぎなかったが、中屋敷・下屋敷には必ずといっていいほど庭園が設けられていた。 次いで、旗本屋敷の広さを見ると、禄高が五千石以上だと千八百坪(約6000平方メートル)、一千石以上で七百坪(約2310平方メー…

ハナショウブ

…後における鑑賞法は、庭園の一部としてながめるのではなく、鉢に栽培して花が咲く頃に室内に運び入れてこれを楽しむという、独特な方法であったという。鉢植えなので、丈があまり伸びないものを選出した。肥後菖蒲と言えば、大輪かつ豪華な花形が特徴である。 ところで現代のガーデニングで、ハナショウブはよく使われているかといえば残念ながらがらそうでもない。菖蒲園や菖蒲祭りのようなものは、結構人気があって、よく人が入っているが、実際、個人の庭に植えられている花を見ると、ハナショウブよりアヤメやア…

プラントハンター その2

…物への愛好心を誘い、庭園を飾るようになったことはいうまでもない。 野山草より シーボルトが植物学に精通していて、日本植物の西欧紹介と西欧植物学の日本に紹介したことは、大きな業績であるが、一方で園芸界への貢献も見逃せない。それは、150図の282頁にわたる解説に示された、植物の栽培や鑑賞などに関する記述である。ハクウンボクの花の香りはヒヤシンスのそれと似ているとか、美しいツクシシャクナゲにはメッテルニヒ侯の名前を付けるなど、シーボルトが日本で得た知識とともに興味深く綴られている…

プラントハンター その1

…、街道周辺、都市内の庭園が中心になっているが、その非凡な観察力に注目したい。概してプラントハンターと呼ばれる人々は、食料や香辛料、美しい植物を探しだすことだけに主眼をおいた人たちが多かった。そのなかで、ケンペルは、日本の植物を美しい図で西欧に紹介しただけでなく、美しい植物をさらに美しく見せる技法についても高い関心を示した。 それは、彼が関心を寄せた生け花や作庭は、植物本来の持っている美しさをより際立たせる日本独自の様式である。元禄時代の植物を観賞する文化は、西欧を凌いでいたこ…

江戸のサクラと花見 その2

…である。松平定信は、庭園研究者としても江戸時代の第一人者であり、サクラだけでなく、他の植物についても図集を出しているほどである。 そこで、サクラの分類について、少しではあるが話をすすめたい。いま、我々がサクラの分類としてわかるのは、大きく分けて山桜と里桜であろう。言い換えれば、自然の中にあるサクラと人里にあるサクラで、一重のサクラと八重のサクラとも見ることができる。もう少し詳しく見ると、里桜は、改良ないし、突然変異などによって生まれた園芸品種を指すことが多い。 そこで、サクラ…

江戸のサクラとお花見

…益田市の医光寺、雪舟庭園の一角に子孫が残っていると言われている。http://www.chugoku-navi.jp/theme/takumi_sessyuu.html 天下人となった秀吉の吉野の花見・醍醐の花見は、その豪華さが後世まで語りつがれている。長谷川久蔵作の障壁画、国宝「桜図」(真言宗知積院)は秀吉の派手好みとその時代の闊達な空気とを反映させた、絢爛たる桃山美術である。http://photozou.jp/photo/photo_only/275823/294384…

大江戸名木評判記

…いう。当時、フジ棚を庭園に配する愛好家は珍しくなかったが、播磨守・上屋敷のものは、フジの花の下がり具合いが、飛び抜けて素晴らしかった。作者の言葉を借りれば「花の下り、八尺余、九尺に及ぶものもありて棚より下り地上を這う花も若干あり」ということになる。そして、「かかる藤の長き、世上にたくさん有るべからず」それはそうだろう。今だって花が2m以上も下がっていて、それでもなお余って地面に這っているフジなど聞いたこともない。 もっとも、その色については、作者は「この藤、紫ならば無類なるべ…

信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング 2

…三宝院住職)には、「庭園を築造すべく、自ら縄張りを行う、池を堀り、中島を設け、島に檜皮葺の護摩堂を一宇を作り、橋をかけ、滝二筋を落す計画を示す」という記述が残っている。「縄張り」とは、今の言葉で言えば設計である。秀吉の頭の中には、すでに三宝院庭園の完成イメージが描かれていたのだろう。 この三宝院の庭造りは、池泉の南岸に由緒ある藤戸石を据えたことから、秀吉にとってはなみなみならぬ思いがあったことがわかる。現在でも見ることのできる三宝院の滝組近くの主護石(藤戸石とも千石石とも呼ば…

信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング

…なった。信長は泉水や庭園の眺めを面白く思い、ここに邸宅を建てることにした」。 二条御所造営にあたって、「永禄十二年二月二十七日、辰の一点に着工の儀式を執行した。・・・御殿の格式を高めるように、しかるべき金銀を飾り、庭には池・流水・築山を造った。さらに、『細川殿の邸に昔からある藤戸石という大石を、お庭に置こう』といって、信長自身が出向き、その名石を綾錦で包み、色々な花で飾りたて、大綱を何本もつけて、笛・太鼓・鼓で囃したて、信長が指揮して、たちまちのうちに御所の庭に引き入れさした…

江戸の植木屋  その2

…と見紛うほどの広大な庭園を有して、下は行楽好きの長屋の連中から上は旗本や大名まで幅広い見物客を集めて、一年中大変な賑わいを見せていた江戸の植木屋たち。言うまでもなく時代の先端を行く、人もうらやむ花形稼業ではあったが、やはりその裏には、悲喜こもごもの様々な人間ドラマがあったようだ。例えば、当時林立していた植木屋間の競争は当然激化していった。互いに、他店にはない付加価値を探し、たえず何かアピールできるものはないかと技術・情報を競っていた。そしてそんな気持ちが高じて引き起こしたと思…

冬牡丹は江戸文化

…以来寺院などを中心に庭園木として好まれたが、それまでの薬用植物の地位から鑑賞用植物の地位にまで引き上げ、多くの品種を生み出したのは、何といっても江戸時代であった。先に“渡来したのは奈良時代”と書いたが、ではそれ以降、江戸期になるまで、薬用一辺倒であったかと言えば、これほど見事な花を人々が放っておくはずもなく、平安中期には宮廷や寺院で鑑賞用として栽培されていた。関白藤原忠通が『詞花和歌集』(1151年)で詠んだ「咲きしより散りはつるまで見しほどに花のもとにて二十日へにけり」とい…

梅にまつわる話

…気なのは、その自慢の庭園(韻松園)を大多数の庶民に公開した点である。花好きといってもせいぜい鉢物を買ってきて世話をする程度であった当時の庶民にとって、久啓の奇特なふるまいは、喝采ものだったのに違いない。 ・梅屋敷と錚々たるパトロンたち 東都歳時記より 江戸時代の終わりには、江戸周辺には数カ所のウメの名所が存在したが、中でも最も大きな梅林といえば、蒲田の梅屋敷であった。この梅園は元は農家の庭先や田畑の周辺に植えた程度のものにすぎなかった。梅干しをつくり、農民の収入を少しでも多く…

大江戸野菜事情

…大名、趣向を凝らした庭園が当主の何よりの自慢で、毎月日を決めて希望者に観覧させていたというほどの内福家。したがって亀井家の野菜作りは倹約目当てというより、将軍家同様、一年を通じて、おいしく新鮮な野菜を確保したいというグルメ志向から発したものと思われる。 さらに詳しい園芸日誌を見てみよう。文京区の小石川三丁目にあった幕臣小野庄兵衛直泰方の百五十坪ほどの敷地がその舞台。両親に子供たち、使用人も含めて十二、三人の所帯である。そんな小野家の園芸事情について直泰の父直方が、1745~1…

江戸の観葉植物

…と思う。 ・西欧庭園で人気がある斑入り植物 西欧でも観葉植物への関心は高かったが、かの地では樹や葉の形よりも葉の色に注目していた。だからといって、斑入り植物が日本独自のものかといえば、そうではない。西欧でもよく使用され、室内はもちろん、庭園にもたくさん植えられている。むしろ彼らは、現代の日本人より斑入り植物を好んで植える傾向があるといってもいいくらいだ。日本人、というより日本の造園屋さんは、斑入り植物に対する先入観がつよい。それは、日本庭園の植物材料として植えるには、斑入り植…

江戸のオープンガーデン

…ガーデンとは、私的な庭園の公開を目的として、1927年イギリスで発足したナショナル・ガーデン・スキーム(NGS)がその発端とか。日本でもここ数年各方面から注目されるようになり、実際、新宿・世田谷などのグループをはじめ、日本各地で個人庭園の公開が行われている。 庭の形態も違えば、来訪のマナーやもてなしの手法もまったく違う日本で、オープンガーデンの試みは、所詮物まね、定着は期待できないという向きも少なくないが、では日本にはこの種のレジャーが存在しなかったのかといえば、そんなことは…

植栽・庭園美術史

…来、寺院などを中心に庭園木として好まれてきた。やがてその花の美しさが愛でられ、薬用植物から鑑賞用植物へと“出世”していく。改良を重ねて多くの品種を生み出し、名実とも日本の花となったのは江戸時代(17世紀~19世紀中頃)のことである。元禄年間(17世紀後半)に書かれた『花壇地錦抄』という園芸書には、なんと481種にものボタンの品種が出てくる。 ボタンが江戸時代において特筆すべき花になったのには、17世紀前半に寒牡丹(別名フユボタン)が出現したことが大きい。寒牡丹とは、春秋・二季…