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江戸時代の椿 その18

…るべからず、後西院山茶花を御好みありければ所々より献上す、珍花は手鑑にして極彩色にて片表に九つづつ花を記されしに、年々冊数多くたりける程に遂に五十巻ばかりになれり、所詮かぎりなき事なりとて止めらる、是によりておもふに、菊や椿などは人の好みによりて数多くなるものとみえたり、一々漢名あるべからずと(塊記○此書は山科道安といふ醫の豫楽院家煕公の語を記せし也)見え、又本草綱目灌木部に山茶を載せたり、我国のものもおほかたは灌木なれど、日向国諸県郡野尻郷に生るものは皆喬木にしてその幹抱を…

天王寺屋会記の茶花

茶花 2 天王寺屋会記の茶花 『天王寺屋会記』の茶花 『松屋会記』の茶花を調べて、十六世紀半ばから17世紀半ばまでの約百年間の傾向や変遷がある程度見えてきた。となると、『天王寺屋会記』にも興味がそそられる。ただ、『天王寺屋会記』について、史料という点では多くの専門家が疑問を提示している。そうすると、茶花についての解析など無意味だし、見当違いな結果を導くだけではないかと言われそうだ、それを覚悟で行うことにした。その理由は、『天王寺屋会記』の自会記には350を超える茶会に茶花が記…

江戸時代の椿 その17

…(キヤンチン) 附山茶花(ツバキ) 椿(音丑倫反) 杶(禹貢) ?(木偏に筍)(左伝) ?(木偏に?)(説文) ?(木偏に熏)(字彙?) 皆同字なり、和名玉ツバキ又キヤンチン、又チヤンチンといふ、本邦もとより多きものなれども、昔人識ずして、唐山より種を取よせ、黄檗山に栽しといふ、木高く聳え、木理細膩にして白実、皮に縦紋あり、樹梢枝を繁く分ち、春新葉を生ず、漆の葉に似て長し、雌木は五月長穂をなし、南天竹の花に似て白色なり、秋に至り、実熟して形連翹に似て圓長自ら竪に裂て、松実の…

『松屋会記』の茶花

茶花 1 『松屋会記』の茶花 『松屋会記』 松屋会記(『茶道古典全集〈第9巻〉松屋会記』より) は、松屋久政(?~1598)、久好(?~1633)、久重(1566~1652)三代にわたって書かれたとされる茶会記である。久政茶会記は天文二年(1533)から慶長元年(1596)、久好茶会記は天正十四年(1586)から寛永三年(1626)、久重茶会記は慶長九年(1604)から慶安三年(1650)にかけての茶会を記したものである。 久政茶会記は千利休が活躍した時代と重なり、興味深い。…

江戸時代の椿 その14

…薬方雑記ニモ、日本山茶花、其国名為椿、不名以山茶也ト云。其下文ニ山茶ノ名ヲ載ルニ、白玉 唐笠 白妙 高根 白菊 六角 加賀牡丹 渡守 春日 有川 朝露 乱拍子 薄衣 大江山 三国 玉簾 浦山開 荒浪 鳴戸 関戸 金水引等ノ号アリ。朝鮮ニテハ冬花ヲ開ク者ヲ冬柏ト云、春花ヲ開ク者ヲ春柏ト云コト養花小録ニ出。山茶略ツテ単ニ茶ト云。其品甚多シ。花史左編、群芳譜、秘伝花鏡等ニ詳ナリ。和産殊ニ多シテ数百種ニ至ル。此条下ニ数種ヲ出ス。宝珠茶ハ俗名タマテバコ、大和本草ニハ、タマシマツバキト云…

江戸時代の椿 その13

…流行、ツバキの名所、茶花や油としての利用など、多岐にわたって記されている。 花の名前について 1800年までのツバキに関する記述で最も注目するのは、「椿」「海石榴」という表記である。当時の人は、ツバキの語源に関心があったようで、かなりこだわっている。それに対して、現代の人は、花の名に対しそれほどこだわりがないというか、やや無神経とも感じられる。 「花王」といえば、中国ではボタン。日本では、近年、サクラを指す傾向が強くなっているが、それでもボタンであると、主張する人も少なくない…

茶庭 22 小堀遠州その7

…の7 小堀遠州と茶花 その2 ・遠州の好みの茶花 小堀遠州茶会記に登場した花は、38種ほどある。現在使われている茶花に比べると意外に少ないと感じた。最も多く使われたのがスイセン(78回)、次いでウメ(56回)、ツバキ(30回)、サザンカ(23回)、ハス(19回)、コウホネ(15回)、ボケ(11回)、フクジュソウ(11回)の順である。これらの花は、寛永二年(1625)から正保三年(1646)まであまり変化していない。そのため記載のない、寛永六年から十二年までの茶花についても、前…

茶庭 21 小堀遠州その6

…の6 小堀遠州と茶花 ・『小堀遠州茶会記集成』 小堀遠州の茶会の詳細についてまとめたものに、『小堀遠州茶会記集成』(小掘宗慶編集)がある。この本は、「二十三本の小堀遠州茶会記中より、重複を省いた三百九十二会の茶会記を日付ごとに編年体に編集した」ものである。これらの茶会記には、当然、数多くの茶花が記されており、遠州の好む花を知る手がかりになるのではないかと考えた。 これから紹介する茶花は、慶長年間の2回(以後の茶会と25年ほど離れているため)、及び年月日の不詳な茶会を除いた、寛…

江戸時代の椿 その10

…す 九月廿三日 山茶花貰ふ 十二月廿七日 底白沖の波・和歌浦・藻塩・海石榴を求む 廿九日 海石榴六鉢を買ふ(豊後・青白・眉間尺・丹鳥・釜山海・乙女) ・安永三年(1774)の日記 正月五日 朝雰海石榴・・・貰ふ 十日 海石榴八ッを求む(春日野・鳥の子・白鴫・南京絞・もみこし・限り・玉取・塩かま) 十四日 日前柾鉢置二株・九年母一鉢権兵衛かたへ遣し、今日礒柏・海石榴と取替へ来 廿二日 酒中花・海石榴を買ふ○海石榴二ツ遣し 二月朔日 海石榴花桶貰ふ 十三日 海石榴四鉢求む(八重白…

江戸時代の椿 その8

…バキと訓ずツバキは山茶花(さゞんくわ)なり椿にあらずと又山茶花の条下にても再三論なへども最早本朝にては諸国共に花あつく蕊茶莞のごとくにて春三月花開くを椿(つばき)といひ花ひとへふたへにて葩うすくひらつき黄しべいとのごとくなる八九月花ひらくを山茶花(さゞんくわ)といひならはして椿をさゞんくわといふ人なし今改て何の益あるまじ別して害にもなるべからず和本草の椿の木は近年来るゆへ人の言語を当て書きたる・・・」(編輯 京都園芸倶楽部『地錦抄附録』より)とある。 ・『本草花蒔絵』 玉川c…

江戸時代の椿 その7

…記』の茶会に記された茶花を示す。なお、『槐記』は、近衛家煕の侍医山科道安が家煕の言行を集めたもので、享保九年(1724)から二十年まで記されている。 以下は、『茶道古典全集〈第5巻〉』(千宗室)にある『槐記』より、ツバキの使用された茶会の日付とツバキの記載を示す。 妙蓮寺椿cabiさん提供 享保九年(1724)十月十六日 妙蓮寺椿 享保十年十月十八日 椿 享保十年十一月十日 紅椿 享保十年十二月五日 飛入椿 享保十一年二月二十九日 白椿 享保十一年二月十一日 本間彌椿 享保十…

江戸時代の椿 その6

…しい 海石榴は即ち山茶花の一類なり、樹葉花実、山茶花に似て其実の状円にして無花果に似、老枯すれば則ち殻四裂して中の子、海松子の如し、皮を剥き仁をとり、油を搾取す、木実油と謂ふ、刀剣に塗れば則ち繍を生ぜず、以て漆器を拭へば則ち艶を出す、髪に塗れぼ亦艶美、然して髪韌せず、麻油に和して髪油となして佳、但千弁なるもの実を結ばず、其葩厚く大、艶美にして牡丹育薬に亜ぐ、惟恨むらく共萎むや甚だ醜し、其落るや亦脆きのみ、単弁赤きは山椿と名づく、これ乃ち本源なり、白紅粉絞紅或は白相半、八重千弁…

江戸時代の椿 その5

…の花は疑ひもなく、山茶花の事である。海石榴と書いて居るのが、ほんとうである。椿には意味がある。大和にも豊後にも、海石榴市があった。市は、山人が出て来て鎮魂して行く所である。此時、山人が持つて来た杖によつて、市の名が出来たものである。椿の杖を持つて来て、魂ふりをした為に、海石榴市と称せられたのであらうと思ふ。豊後風土記を見ると、海石榴市の説明はよく訣る。 椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があつて、八百比丘尼の持山り物とせられてゐる。八百比丘尼はよく訣らないものであるが、室町…

江戸時代の椿 その4

…紹介されている。「山茶花のるい」として、50品種示されている。 『草木写生』など以前に記された品種名との関係は、ほとんどないものと思われる。しかし、『花壇地錦抄』には、有川(あるかわ)・春日野・南蛮星・松笠など、現代に残る品種がいくつもある。 また、『花壇地錦抄』には「草木植作様の巻」があり、ツバキについても記されている。「椿 植替五月中旬、春をきらう。接木、指木も五六月。よびつきは常なり。指接は枝を長く切り土にさしてつぐ。水接は枝を切り、きり口を水につけてつぐ。三日に一度ほ…

江戸時代の椿 その3

…ノキ、ハダカッポ、夏茶花などの別名がある。地方によって方言もあるだろうが、大勢の人の目に触れられていたと思われるのに、誰もナツツバキの名を記さなかったのは、不思議でならない。 ・『松平大和守日記』 『松平大和守日記』は、松平直矩が明暦四年から元禄八年まで記したものである。日記からは大名の生活状況に加えて、演劇・園芸・鷹狩・文芸など広く記述されている。直矩は、寛文七年閏二月に『作庭記』を書写させているように、庭への関心が高かったようで、ツバキについても日記に書いている。ツバキに…

江戸時代の椿 その2

…粧氷雪面、不随紅作山茶花と、或は数種あり、或花簇は珠の如く、或は青蒂、或は粉紅、或は淡白、謂宝珠茶花、海石榴花、躑躅茶花、一念紅、千葉紅、千葉白の類数ふるにたふべからず,椿花亦然り、倭歌家に玉椿あり、白玉椿あり、紅椿あり、春椿あり、浜椿あり、山椿あり、云々(原文漢文)」と記されている。なお、その他の『百椿図』として、丹波篠山藩主松平忠国(忠晴の兄にあたるのでは)が寛永十年(1633)頃までに作らせた『百椿図』がある。これは、根津美術館に現存するもので、狩野山楽の筆と伝えられて…

江戸時代の椿 その1

…にて秀忠主催の茶会、茶花に曙椿が活けられた。ツバキは茶花としても人気があり、この後に椿ブームが起きる。また、元和七年(1621)四月十一日の西洞院時慶(公家・医者)の日記『時慶記』には、近衛殿庭園新造され「泉水の岩を見、椿の枝をすかす」と記している。ツバキの管理に関する記述あり、庭木としてもツバキは欠かせない植物になっていた。 実は椿への関心は、江戸時代以前からあって、豊臣秀吉も椿に一方ならぬ関わりを持っていた。それは、京都の地蔵院にある、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献…

江戸の盆栽 8 鉢植の用途

…花貰ふ」。廿三日「山茶花貰ふ」。廿四日「菊花貰ふ。菊鉢植貰ふ」とあり、この月は、鉢植をもらったの珍しくこの日だけらしい。(1回) 十月は、五日「南天鉢うへ貰ふ」とあるが、朔日「菊華二十許持参」、十八日「水仙を貰ふ」、二十六日「柊二株・珊瑚珠一株・橘一株貰ふ」と、植物をいろいろもらっている。(1回) 十一月は、鉢植をもらっていない。それでも廿二日「水仙貰ふ」とあるから、スイセンの花をもらったと思われる。 十二月になると次の三回ある。三日「紅梅鉢うへ貰ふ」。十六日「鉢置寒紅梅貰」…

江戸の盆栽 3

…い。現代でも切り花や茶花に使われている。和名の由来は、中国西湖に生育する葦に因んだものだろう。百文という値段、現代なら三千百二十五円に相当し、かなり高いような気がする。 「紫背景天」は不明である。漢名の「景天」は、「オオベンケイソウ」である。この植物は、『牧野新植物図鑑』には、「支那原産で多分大正年間(1920年前後)に日本に入った多年生草本」とある。日本の山地に生育する「ベンケイソウ」とは異なる。また、中国吉林省長白山周辺の高山帯に生育する多年生草本に紅景天(和名・岩弁慶)…

茶庭 9 千利休その5

…うことだろう。 茶花 利休の茶花についてまとめられた本として、『利休の茶花』(湯川制)がある。『南方録』などを資料に考察したもので、なかなか興味深い内容である。利休の挿花については、資料が少ないことから『南方録』を中心に考察しているのであるが、気になる点がいくつかある。 まず、「挿花」の初めとして、天文六年の茶会(当時、利休が十六才であった)を取り上げている。しかし、この記録は、利休の茶会記録として疑問(『千利休の「わび」とはなにか』神津朝夫)が持たれている。 また、天正八年…

茶庭 2 武野紹鴎

…録の茶会で使用された茶花は、 ・天文十八年(1549)二月十三日(宗達他会記による) かふらなしにうす色のつハきを入テ(蕪無花入を置き、薄い色合いの椿) ・天文二十三年(1554)正月二十八日(今井宗久茶湯日記抜書による) 床 古銅花瓶、長盆ニ、白椿生テ(後座床 古銅の花入に白椿) ・弘治元年(1555)十月二日(今井宗久茶湯日記抜書による) 槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ(紫銅無紋の槌の花入に水仙) 事例が少ないので、この事例だけでツバキとスイセンが好みであったとは…

信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング 2

…ようだとある。 この茶花の扱いは、利休流の「庭前の花不入」という原則から生じたものとの解釈がある。この原則は、小堀遠州などに受け継がれ、露地には花の咲く木をあまり植えないようになっていたとされている。利休の趣向を一方的に受け入れなければならなかった秀吉、その場は納まったであろうが、禍根を残したことは間違いない。後年、利休は、秀吉の勘気に触れ、流刑、さらには切腹となった。 なお、利休も庭造りや園芸に長けており、秀吉の聚楽第の築庭にも関わっている。利休の功績は、茶室と露地の構成を…

信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング

…な武将も、茶器と共に茶花の知識がなければ、信長の機嫌を損じることにもなりかねない。まして、信長が自ら活けたかもしれない茶花について、名前を知らないでは済まされない。 かくして、天下は信長の意向を無視できないようになった。したがって、茶会に招かれた大名をはじめ武士は、こぞって花を愛で、庭づくりに情熱を競うようになった。やがて、そうした風潮が富豪町人、さらには下層の人々へ広がって行った。流行を支えるしくみを考える際、大きな鍵となるのは、時のリーダーとなる人の趣味・嗜好である。彼ら…

江戸の植木屋 その1

…り斗をする者、⑥椿山茶花等を作る者、⑦梅桜の類を作る者、⑧地植斗をする者、⑨庭造にも茶の庭を造る者、⑩岩石庭とて岩ぐみ其外石をたくみつかふ者、以上十種もの植木屋をあげている。また、流派の違いなどもあって、実際にはさらに五六十に細かく分類されていたようだ。 次に、植木屋がどこにあったかということだが、巣鴨、染井、駒込、小石川、千駄木、田畑、根岸、三河島、本所、向島、亀井戸、また四谷、赤坂、青山、麻布、芝、目黒など江戸周辺に数多く分布していた。そして現代でも、たとえば、郊外の大型…

冬牡丹は江戸文化

…まり多くない。また、茶花や生花としても個性が強すぎあまり使われていない。このように見てくると、ボタンは古くから日本に存在し、誰もが身近に知っているようでいて、意外と植えられている場所は少なかったのではないか。また、植えられていたとしても、生薬は根の皮を使用するために、根分けした苗には花を咲かせず5年目の秋に根を掘り出し、結局花を見ることはできない。花の咲く期間は意外に短い。おまけにボタンの葉は、葉物を好んだ江戸時代の人々からも格別評価されなかったようで、花に対する人気や評価は…