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太陽暦が始まる明治六年

…いる。当時の日本人の娯楽は、西欧人の目には全く異質なものと映ったようで、特に庶民の行動は理解しがたいものだった。ブスケは、見すぼらしい恰好だが上流階級よりもむしろ楽しげに遊ぶ庶民、またそうした人々のあっけらかんとした性感覚など、当時の庶民の生き生きとした様子を記している。 江戸時代と同じような見世物としては、回向院に活人形の化け物(約9m大黒天の巨像)が出ている。下谷元おなり道東側裏で、手妻軽業綱渡りの入る歌舞伎狂言が芝居として興行されている。また、川崎大師では、虎と豹の見世…

明治四年の東京庶民

…査するようになった。娯楽はもちろん、庶民の生活全般についても干渉するべく、そのための体制が整いつつあった。しかし、庶民は浮かれ歩くことに忙しく、江戸時代の「三日触れ」がまた出されたていった程度の認識しかなかった。─────────────────────────────────────────────╴ 明治四年(1871年)の主なレジャー関連の事象─────────────────────────────────────────────╴ 1月B上野山下に柳川一蝶斎てづまの…

徐々に始まる明治の東京

…。正月とはいえ大した娯楽のない庶民のこと、ひれ伏しながらも行列を見物し、色々と比べて噂し合うという恰好の楽しみは失われた。したがって、いつになく静かな正月であったに違いない。また、この年は、正月早々、早くも梅の花が咲き、中旬には紅梅の開花のたよりも伝わっている。 戦いの後長らく閉じられていた上野山内だが、二月の中頃になってようやく参詣や花見などの立ち入りが許された。そうなると戦いの跡を一目見ようという見物人が、日を追って増えていった。また、下旬には、江戸城吹上御苑の拝観が許さ…

東京庶民が始まる

…、庶民の趣向に応じた娯楽読み物という面を持っていた。内容は、パロディーや機知に富む読み物から世間で評判になっている事柄など多種多様であったようだ。形式は大半は一枚刷りであるが、時に手書きの瓦版や写本もあったらしい。瓦版は、火事や心中、仇討ちなどの話が多く。特に、心中や仇討ちは面白おかしく脚色された。瓦版の情報は必ずしも正確とは言えず、客観性に疑問のあるものも多い。そのため、内容が低俗で、下賤な河原者たちの刷り物、という意味から瓦版という名前になったとも言われている。 ところで…

改元前年の庶民

…ったが、次第に飲食や娯楽をともなうようになり、市での買い物も楽しみの一つになっていった。 江戸の縁日は、毎日どこかで催され、一年中ほとんど切れることなくあったようだ。多い日には同じ日に、江戸の各地に縁日があり、特に奉公人の藪入(休日)と重なる閻魔参りには、百箇所に及ぶとされていた。『東都歳事記』(斉藤月岑)には、当時の縁日の繁昌ぶりや数多くの縁日がいつどこで催されるのかが詳細に記されている。また、『江戸名所図会』(松潯軒長秋編輯 長谷川雪旦図画)の「茅場町薬師堂の縁日」を見る…

世相を映す幕末の見世物

…火を免れた上、人々は娯楽に飢えている節があるから新春の興行は、思い切って打って出たい旨が書かれていた。喜三郎が小躍りして、江戸へ上ったのは言うまでもない。 二回目という今度の興行では、小屋自体も間口十三(23.6m)奥行十四間(25.4m)と驚くべき広さで、廊下づたいにまわりながら見物できるようになっていた。さらに番付を売る店や雨天時にも不自由なく見物できるような仕掛けなど様々な工夫を凝らした。当時これにかけた費用について「千両箱が空になった」と取り沙汰されたほど。 いよいよ…

信心に託つけた 遊びを見直す

…の人々が憩える場所や娯楽が少なかった。出かける場所といっても、社寺くらいのものだっただろう。加えて、幕府の命による祭事が盛大に行われていたこともあって、江戸庶民の行楽は、社寺への参詣から始まったという感が強い。 江戸での遊びは、開幕のころから行われていた。江戸の三大娯楽と称された、吉原遊廓が1617年、また、歌舞伎芝居の興行や江戸勧進相撲は1624年に始まった。しかし、それらは、経済的にゆとりのある武士や商人に限られたものであった。当時の庶民(下層階級)は、その日暮らしでその…

四季の行楽

…せれば、正月の初めは娯楽が少なく、他に出かける所がないかららしい。 初寅(毘沙門)・初卯(妙義)・初巳(弁天)などと、その後もあちこちの神社、仏閣などのめぐりが続く。なかでも、十六日の藪入りと重なる閻魔参りは、浅草寺御蔵前長延寺、小石川富坂町源覚寺などをはじめ、百カ所程度の閻魔堂で行われる。そこで繰り広げられた縁日の賑わいを考えれば、家族の誰か一人が出かけるほど一般的な(10~25%)行楽活動であった。 春、人々はほころびかけた梅の花を見ようと、亀戸、向島、蒲田などへ出かけ始…

十九世紀初頭

…見世物や寄席のような娯楽として、また『東都歳事記』の中で「景物」と呼ばれる、花見、汐干、漁獵、螢、紅葉狩り、雪見など、現代のレジャー活動へとつながる遊びであった。 ★享和1年1801年 2月 中村座で『仮名手本忠臣蔵』大当たり大評判 春頃 浅草寺開帳を含め開帳6 3月 この頃から小金井村の桜見物ふえる 3月 深川八幡で勧進相撲 3月 河原崎座で『加々見』『江の嶋奉納見台』大当たり 4月 市村座で『全盛伊達曲輪入』大入りで5月節句休みなし 夏頃 回向院での嵯峨清涼寺開帳を含め開…

江戸庶民の楽しみ 77

…四年1783年の主な娯楽・行楽関連の事象 1月7日 浅草甚賑也 1月 中村座で『筆始勧進帳』初演 1月24日 吾つま橋際地蔵尊百万遍の菓子を往来へ投与ふるゆへ人群集、浅草群行賑也 閏1月2日 浅草参詣、境内賑也 2月18日 山内彼岸桜爛漫人群集、見明院太師熟閙、浅草ことに賑ハし、観音内陣込合 2月24日 谷中通春遊の行人賑也、山中往来の人多し、黒門前諾侯参詣多し、両国橋上より大群集、廻向院道了権現人叢分かたき、四天王像甚熱閙 2月26日 今川橋手前にて雛市見る、市中熱閙 2月…

江戸庶民の楽しみ 76

…元年1781年の主な娯楽・行楽関連の事象 1月18日 凌雲院大師へ、大熱閙人叢分かたし、清水参詣、山内(上野)群集 2月1日 浅草参詣、本堂にて談儀、参詣賑し 2月朔日より 浅草妙音寺にて鎌倉名越谷長勝万寺祖師開帳 2月15日より 回向院にて、下總小金竹一月寺釈迦如来不動尊開帳 2月 多田やくし・沼田延命寺にて、信州善光寺四回如来御命文内拝 2月26日 上野今日御成後参詣甚多し、浅草奥山参詣甚多し、塗中甚賑也、街道群集両国より人叢分かたし、廻向院、甚熟閙、本堂も人叢 3月1日…

★天明四年夏・三月~五月

…多死」とある。 他の娯楽関連として、柳橋河内屋で烏亭焉馬が『太平楽之巻』を自演している。これが、落語(落噺)隆盛の元とされている。 ★五月 朔日○七過よりお隆同道庵の門より長屋幟見に(略)野田長屋へ行休み、村井方にて茶をのみ暫在、吉村長屋前より供、雄島方へも行、木俣方に暫在、新井・穴沢・滝長屋へ行、滝路次より台所口ヘ帰る、日暮也 四日○九頃よりお隆同道浅草参詣(略)谷中口(略)光岩寺参詣、御影をうけ戸繋伊勢屋に休み(略)薩埵拝し御手洗へ鰻放し、源水床机にて枕こまの手つまを見、…

花壇綱目

…数の読者を期待できる娯楽書であれば引き受け手はありますが、教養書となりますと大変です。そのような昨今の状況の中、環境緑化新聞発行人・井上元氏の口添え、株式会社創森社・相場博也氏のおかげで刊行に相成りました。なお、小生の力不足により、刊行後早々誤植が見つかり、以下の赤字のように訂正いたします。 ★はじめに 四季折々に花を眺めて楽しむ、そうした日本ならではの自然特性を生かしたガーデニングについて記したのが『花壇綱目』である。 『花壇綱目』は、庭の意匠を記した『作庭記』(平安後期頃…

★江戸っ子の本領

…が明治になって求めた娯楽を見ればよくわかる。 明治時代の中頃に活躍した人というのは、江戸時代に生まれ育った人である。天保年間(1830~44年)に生まれた人は、40歳代の中年である。彼らの生活感は、しっかりと江戸に根を下ろしていた。そのため明治になっても、江戸っ子の遊びは、基本的に江戸時代と変わらず、政治的に混乱していた幕末期より盛んであった。開帳に祭り、寄席などを楽しむ姿は、東京市民というより江戸っ子そのものであった。 彼らの遊びを見ると、文明開化ならではの欧米レジャー、ス…

★庶民の遊びに憧れて

…にとってはまたとない娯楽の拠点であった。 ただ、原寸大で再現した庶民の街とはいっても、一点だけ本物の町と違っていた。それは、「御町屋」には町人が一人もいなかったことだ。なぜなら、武士たちが「素」に戻って遊んでいる様子は、庶民には決して見せられないものであったから。「大名家の施設テーマパーク」ともいうべき場所で、高級武士たちは文字通り羽織袴を脱ぎ捨て、ごっこ遊びに興じていた。 さらに「御町屋」は、日頃自由のきかない高級武士にとって、庶民の間でちょっとした流行になっていた「旅行趣…

★御開帳

…む。もちろん当時は、娯楽が極端に少なかったから、暇つぶしに開帳に出かける人が多かったとも言えるが、神仏を信じその慈悲にすがろうという気持ちが根底にあったのは事実のようだ。 上は、祈祷によって病を直そうとする将軍から、下は日々朝参りを欠かさない庶民まで、宗教活動が人々の日常生活に深く浸透していた江戸ならではの風俗といえる。 とはいっても、宗教には必ず遊楽がついてまわるのが当時の特徴でもある。開帳にも多くの茶店や床店、力持ちや独楽の曲芸といった見世物小屋などが立ち並び、庶民にとっ…

御開帳

…む。もちろん当時は、娯楽が極端に少なかったから、暇つぶしに開帳に出かける人が多かったとも言えるが、神仏を信じその慈悲にすがろうという気持ちが根底にあったのは事実のようだ。 上は、祈祷によって病を直そうとする将軍から、下は日々朝参りを欠かさない庶民まで、宗教活動が人々の日常生活に深く浸透していた江戸ならではの風俗といえる。 とはいっても、宗教には必ず遊楽がついてまわるのが当時の特徴でもある。開帳にも多くの茶店や床店、力持ちや独楽の曲芸といった見世物小屋などが立ち並び、庶民にとっ…

庶民の心を掴む遊びの仕掛け人

…商売の仕方は、現代の娯楽産業の従事者のそれとは大きく異なる。まず、遊びの代価として金をもらうことを明言していない。客が満足し、自主的に金や食べ物をくれるのを待ってそれを受け取る。また、遊びと一口に言っても、現代の遊びのイメージとは趣が違う。たとえば、ストレートに楽しさを提供することのほかに、不安を取り除いたり、びっくりさせたり、見るものに優越感を与えたり、時によっては「だまし」と紙一重というようなものも少なくなかった。 このように江戸時代初期には、庶民に近づいて、ちょっと猥雑…

★幕府の思惑も絡んだ芸能界の既得権争い

…する。 当時、庶民に娯楽を提供していた人々と言えば、経済的、社会的に地位の低い人々、下賤な者として社会的な差別を受けていた人々が圧倒的に多かった。イエズス会が編纂した『日本大文典』(一六〇四年)には、下賤な者として社会的差別を受けている人々に、猿楽、田楽、ささら説経、鉢こくりなどの呼称が挙げられている。 しかも、猿楽の中には太夫をはじめ鼓打、狂言、大鼓打、脇、地謡、笛などが含まれていたから、芸能に携わるほとんどの人々が賤民的な地位に置かれていたといってもいいくらいだ。歌舞伎の…

★町人が遊び場を制する

…吉原でもはつきりと現われてきた。もともと揚屋は、畳をあげると能舞台に早変わりするようになっていて、大名らが登楼してはよく能を演じていた。それが宝暦年間(1751~64年)には、能舞台も揚屋も姿を消した。この事実もまた、吉原の主役が武士から町人へ移っていったことを示している。 娯楽の場における勢力争いは、すなわち世上での勢力争いでもある。日々を楽しく暮らしている者が真の勝者だとしたら、表向きはは武士の方が偉くても、実質的に人生を謳歌していた町人の方が勝者だと言えるかもしれない。

★徐々に盛んになる庶民の遊び

…れない。 もっとも、娯楽には縁の薄かった町人に、こともあろうに幕府がそのおもしろさを教えてしまったという側面も否定できない。お上から与えられる、たまの楽しみで満足しているうちはいいが、町人も力をつけてくると、その程度の遊びでは満足しなくなります。当時は予想もしなかったであろう、江戸中期以降の町人の盛んな遊びっぷりは、実は幕府自身が種をまいた結果と言えなくもない。 実際、町人の楽しむ様子を余裕をもってながめていられたのは、そんなに長い期間ではなかった。間もなく、町人が贅沢したり…

江戸庶民の楽しみ3 見世物と歌舞伎

…民)が、気軽に行える娯楽として最も人気があったのは、見世物であろう。歌舞伎を見世物を同列と論じたら、現代では顰蹙を買うかもしれない。でも江戸時代の初めの頃は、似たような出し物として受け取られていたようである。違いは、色気に誘われるか、好奇心が先にあるかというくらいだろうか。では、当時の歌舞伎と見世物の状況を覗いてみよう。江戸で初めて見世物の興行が行われたのも、この元吉原においてであった。遊里は同時に盛り場でもあったわけだが、歌舞伎と他の見世物との間に、まだきちんとした区別がな…

江戸庶民の楽しみ 庶民の遊びが始まる前

…を置き、町人の生活や娯楽にはほとんど関心を示さなかった。 逆に言えば、まだ町人は目立つような存在ではなく、遊んだり、派手に金を使ったりということとは無縁であった。そのため、幕府としても警戒したり、取り締まったりすることはなかった。ことを起こしていたのは武士で、銭湯で喧嘩をしたので銭湯通いが禁止される。銭湯というと庶民の憩いの場という思い込みがちだが、最初の頃に通っていたのは武士が多かったようである。ちなみに江戸市中に銭湯ができたのは、天正十九年(1591年)といわれている。な…

伝統園芸の時代背景

…類からすれば、園芸は娯楽(leisure)の中の、その一分野にすぎない。とはいえ、時代によっては世相を反映する事象として重要な位置を占めていた。江戸時代の園芸は、現代よりずっと社会的な役割や存在感が大きかった。 ここで、園芸を娯楽・行楽などとの関連から位置づけする必要がある。園芸が娯楽として、当時の社会にどのよう受け入れられていたか。どのような人々によって、どのような広がりを持って、いわばその人気度を示したい。園芸は娯楽ではあるが、単なる娯楽にとどまらず世相を反映するものとし…

江戸のサクラと花見 その2

…。今と違って、大した娯楽もない時代である。しかも各々の家の経済事情に合わせて楽しむことのできる「花見」は我々の想像以上に人々の気持ちを高揚させるものだったらしい。 何日も前から、晴れ着や髪の準備をととのえ、持ちものや弁当にも趣向をこらし、向島に向かう。堤の下に幔幕を張りめぐらせて、その中では、緋色の毛氈の敷かれた上に、晴れ着に着飾った娘たちが花開いていた。そんな花見の様子は明治の初め頃まで続いていた。東京医学校の教授であるベルツは、「日頃あまり美しいとは思わない女の人が、今日…

丁子菊から菊人形へ 2

…こしている。さしたる娯楽のなかった時代とはいえ、二度、三度と流行を復活させているのには驚かされる。これはやはり、奇抜さだけではなく、優れた栽培技術と植木屋の余技といえども、手を抜かずに見事な細工を披露しうる芸術性があったからこそであろう。 ・役者に似せた菊人形が大当たり 嘉永期に入ると、菊人形レースは、完全にもう団子坂勢の一人勝ちになっていった。「団子坂の菊人形」が従来のものと最も大きく異なる点は、客から見物料をとったことである。若月紫蘭著『東京年中行事』には、明治維新の混乱…