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大正九年中期、メーデーは労働祭

…民のレジャー気運は、梅雨で落ち込んでいる以上の衰退ぶり。元気なのは、十七日付の新聞に紹介されている「市内四千の交換手、日光へ慰安旅行」のような会社あげての活動である。無法なシベリア出兵に巻き込まれてなくなった尼港殉難者大追悼会が、日比谷公園音楽堂前で催された。正しい情報が国民に伝えられていないこともあって、市民の関心は低かった。そのためか、そこにはシベリア出兵の意味がよく分からない東京府内の中学から大学等100余校の学生生徒が参加させられていた。・七月「去年の景気を夢と語る川…

大正九年前期 不景気であるが庶民は遊ぶ

…を賑わした。・三月「梅日和、人出に賑わう各公園」八日付万朝 三月、株式市場の大暴落に始まり、米や生糸相場なども下落、工場の廃業が続発、第一次世界大戦による好景気もこの頃まで。しかし、市民の行楽はまだ影響はないようで、七日の日曜には、市内や郊外も梅見の人が出た。彼岸には祭日(春季皇霊際)と日曜日が重なって、麗らかな春日和に行楽の人がどっと繰り出した。また同じ日に六十八団体が芝公園に集まって普選連合大会を行い、日比谷公園や上野公園でも集会や宣伝活動が行われていた。また、芝浦では埋…

大正八年後期、庶民の遊びは続いている

…月にも支那から名優・梅蘭芳を呼び、特等10円という驚くばかりの見物料を吹っ掛けた。ところが、観劇客は、高ければ素晴らしいものだという罠にまんまと引っ掛かり、巨額の利益を得た。これに味をしめた興行主は、九月はロシアから大歌劇団を招いて十五日間の興行。料金も特等12円・一等10円・二等7円・三等3円・四等1円と設定したので連日満員だと15万円を超える収入になる。当時、日本より遥かに物価の高かったロンドンでも最高で5円50銭程であり、ベルリンでは4円、米国ならさらに安いはず。いくら…

大正八年中期の庶民、まだ自由な感覚がある

…永 荷風、帝国劇場で梅蘭芳の楊貴妃を聴く 18読 夏祭り気分の浅草三社祭り 19読 三友館合同特別興行、馬・ダンス・独唱等連日満員 20読 大相撲夏場所、日曜日に負けぬ大人気八日目 24読 客足思わしからぬ夏場所十日目 27読 蔵前名物高工記念祭の素敵な人出6月1読 三越で江戸風俗展覧会 2朝 漁客三千名、玉川電車大繁盛 2朝 「織物問屋が率先して、雇人酷使の旧習を打破する日曜休日の実行へ」 2読 遊楽館「稲生武太夫」大好評の盛況 2芥 龍之介、弟と電気館で「呪いの家」を見る…

「熱狂的好景気」の大正八年前期の庶民娯楽

…がりの九日、水戸の観梅列車は振るわなかったが市内の日比谷・芝・上野公園にはかなり人出があり、浅草は押すな押すなの騒ぎ。十七日付「梅の日曜」の記事(讀賣)には、市川付近の国府台や中山、花月園や穴守などへと、行楽の人がさらに増加している様子を伝えている。 我が国初の試み、畜産工芸博覧会は、上野不忍池畔で三月十八日から五月末日まで催された。ハンブルグ門を真似た正門の会場には大仕掛けの牧場や十万点以上の畜産工芸品が展示された。牧場は二つに分かれ、左手に牛馬、右手に綿羊、背後には牧場の…

盛り上がりが続く大正七年前期の東京庶民

…・二月「きのう日曜の梅日和 各所の賑い」二十五日付讀賣 三日は節分会。浅草観音では十俵もの豆をまいて好景気。亀戸天神では赤鬼青鬼の問答で大いに笑わせた。豊川稲荷では河合武雄や釈迦ヶ獄、常ノ花の年男が人気を呼び、各地とも大いに賑わった。四日の初午、羽田穴守稲荷は早朝から参詣者がことに多く、境内では曽我の家の奉納芝居、里神楽などが演じられ、沿道の飲食店は大層な繁盛。その他、赤坂豊川・王子・笠守・鉄砲州などの各稲荷も参詣者が引きも切らず賑わいを極めた。 十一日、「憲法発布三十年祝賀…

遷都五十年に浮かれる大正六年前半

…がしい状態。郊外へは梅見客(観梅回遊切符1500枚売れる)がどっと繰り出し、それに伴い市内の電車は増発896台、乗車人員は67.7万人との記事(東朝)。この年の二月は比較的暖かであったのだろうか、森鴎外は、二十四日に娘の類と銀座に出かけ、「日比谷公園に憩う」と。翌日も「妻、茉莉、杏奴及類遊浅草」とある。・三月「行楽の中心は奠都博」十八日付讀賣 十五日から東京奠都奉祝博覧会開催。これは江戸奠都50周年を祝い、上野不忍池畔で約三カ月に渡って催されたもの。呼び物は、京都三条大橋を始…

戦争景気に踊らされる大正五年後半

…凝らしている。帝劇は梅幸と松之助の「實盛物語」他。歌舞伎座は羽左衛門の三役早変わり「牡丹灯籠」他。市村座は「国定忠治」。明治座は「横櫛お富」。映画は電気館の「百万弗の秘密」、これはチャップリン主演で大好評。続編が次々につくられ十七日封切りが続十三・十四編、二十七日から続十五・十六・十七編と上映された。 十五日は藪入り、休みをもらってた小僧さんたちは、絵看板が立ち並び、人寄せの音楽と呼び声が入り交じる中、氷サイダー、豆のアイスクリーム、パイナップルの切り売りなど流行りの食べ物に…

レジャー気運が高まる大正四年前半

…後に、少々早いが蒲田梅屋敷の様子をのぞきに、さらに川崎大師へと洒落込む者が多かった。 この年、連鎖劇というものが流行り出した。これには、演劇が主体で舞台で演ずることのできない部分を映画で見せるものと、もう一つ、映画の途中で演劇や踊り等をはさむものとがある。本郷座では演劇が中心で、筋書きを読まなくても見ていてわかるために、誠に重宝な手法であるとの評がある。浅草三友館では映画を主とし、「忠臣蔵」では、映画の合間に尾上松之助一派女優団が実演するという連鎖劇になっている。・三月「随所…

東京大正博覧会で賑わいを取り戻す大正三年前半

…ーは活発に 六月、梅雨に入り外出がおっくうになりがちだが、相撲や開帳などに人出がある。新聞では博覧会の盛況を伝えるが、市民の博覧会熱はとうに冷めていた。博覧会へ誘うイベントは、蛍狩りなど連日のように新聞に載せられている。しかし、入場者数は天候に左右され、晴れないとなかなか出かける気にはならない。 そんな中、森鴎外は、二十日小雨の中、娘の茉莉を連れて博覧会に出かけ精養軒で食事をした。 ──────────────────────────────────────────────…

大正二年は不景気、でも娯楽はそれなりに

…日付東朝)他 蒲田の梅屋敷の入園料が5銭だとか、越谷にすばらしい樹があるとか、ウメの便りが頻繁になっている。彼岸には六阿弥陀詣でにぎわう亀戸が紹介される中、二十日付で、百花園が売却されるという記事がある。百花園は明治年間に洪水のために何度も復旧工事を余儀なくされたが、そのために莫大な借金が残ってしまった。江戸時代からの茶代や今土焼などの販売だけでの経営では行き詰まった。それで、年頭から大人5銭・小人3銭の入園料を徴収するようになったが、それでも効果がなく、このような話がささや…

大衆レジャーが本格的になる四十五年

…が見られた。初午や観梅など、三月も引き続き大衆のレジャーは盛んで、陸軍記念日の余興に九段偕行社で行われた相撲には約3万人の見物があった。彼岸時には、一足早いヒガンザクラの上野や浅草観音などの盛り場に行く人々で、大賑わいだった。四月は、上野や飛鳥山などが花見で、何時もにましてに賑わい、水ゆるむ東京湾に大勢の潮干狩り客、ツツジ、ボタン、フジと花の便りに誘われて、人々はあちこちと出歩いた。 東京湾の潮干狩りは、非常に賑わい、市民レジャーに定着した。船を使うと少々高いが、大伝馬船を借…

盛んに遊ぶ四十三年

…末から亀戸天神、江東梅園、吉兵衛梅園、次郎梅園などのウメの便りを皮切りに、三月には墨田堤が7百余本の八重桜に2千基のガス灯が設置されるなど、続いた。四月になると、「気の早いサクラを求めて」と「さくらだより」が紹介され、「向島では六分~八分咲き」と大衆の行楽気分を盛り上げている。十日の向島・隅田川方面は、赤白の幔幕を張った花見船が四五十艘、言問団子屋下に繫がれた船では「手拍子揃えて花やかに・・」と、団子の売れ行きは一日5万個を超えるとか、賑わいを伝えはじめた。 また十日は、上野…

大恐慌四十二年の娯楽

…軒出店、江東、木の下梅園、臥龍梅探梅へも人出/読売1月 米国人エルジット夫妻が明治座で自転車曲乗りを昼夜二回興行、大入に付景品一等自転車1月 岡本小美根一座が宮戸座で源氏節芝居を興行、余興に梯子乗り、活動写真もあって満員2月M亀戸、深川、浅草等で様々な追儺式催す2月M憲法発布二十年祝賀会、日比谷公園に10万人余、山車や仮装行列、住吉踊りや娘手踊り等が出る2月M開盛座や演技座などで都新聞連載の天狗太郎を興行3月M都新聞の女義太夫投票で竹本綾乃助が19万票を獲得3月M三越子供博覧…

娯楽も戦時色の三十七年

…だす/毎日2月M臥龍梅、木戸銭5銭となり、実利主義との声2月 子供のあそびに「戦争ごっこ」流行2月 東京かるた会の第一回競技会開催3月E東京座で坪内逍遥の「桐一葉」が興行され好評/日本演劇史年表/国民3月M演技座や国華座など日露戦争もの上演し大入り3月M浅草公園に瀬戸物細工美術人形開設、日露戦争・満州の兵火・道成寺・紅葉狩等4月Yサッポロビール、吾妻橋にビヤガーデン開設4月M上野公園に軍国花見茶屋が設けられ、軍人無料、余興に江戸節や手踊りなどが催される4月Y花見時、天候に恵ま…

三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争

…本新聞)6月 二代目梅ヶ谷藤太郎・常陸山谷右衛門が横綱を免許される、相撲の明治期黄金時代到来6月M浅草鳥越神社大祭、神酒所で争い6月M歌舞伎座で歴史活人画興行、七月も活人画と活動写真6月Y日本チャリネ、回向院で公演延長、7月神田和泉町、8月平河町等で興行7月M回向院で信州善光寺の開帳、日々数千人の参詣7月 東洋活動は、昼に真砂座、夜に市村座にて着色発声浮出し写真、評判良く興行する7月M藪入り、上野・入谷等賑わい、鉄道や一銭蒸気いづれも満員8月J日比谷公園、夏の夜間開放を十二時…

20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽

…2万人の賑わい2月Y梅ほころぶ向島、令嬢の自転車隊現れる3月Y深川で女剣舞者の剣先で見物の少年が軽傷3月M上野花見茶屋、掛台料2銭、菓子3銭、ラムネ2.5銭、酒8-10銭、麦酒10-20銭4月X向島白髭前広場にて、第一回労働者懇親会が参加者三万人余で開かれる④/二六4月Y花曇りのなか、今を盛りの花見客どっと繰りだす4月F大久保のツツジ園に加藤清正の花人形などがでる/国民4月 歌舞伎座、大入でも団十郎の容体悪化延長なし5月M市ヶ谷新坂下に釣堀開業、一日30銭5月M靖国神社大祭、…

多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締

…又帝釈天や亀戸の臥龍梅を見ようとする人で賑わった。次の日曜日は穏やかな日和だったため、各地の梅園などにさらに人が出た。花見の人出が多くなるにつれて、警視庁の取締りも厳しくなり、三月、異様な仮装行列や大騒ぎなどが禁止された。しかし、いざ花見シーズンに入ると、警視庁の訓示もどこえやら、どの行楽地も大変な賑わいで盛り上がっていた。たとえば、東京魚商組合は、大旗を押し立て、股引き半天に打ち扮した若者数十名が楽隊を連ねて上野公園に乗り込んだ。なかには、英国の議員が選挙に用いる魚形の紙帽…

二十九年の上流階層と庶民の遊び

… 六月の末になると、梅雨を逃れて日光、中禅寺湖へリゾートに出かけ、九月の半ば、東京が涼しくなるまで過ごしている。公使夫人という地位にふさわしく、中禅寺湖でハイキングや湖での舟遊び、男体山登山、日光見物などと実に優雅な夏休みを送っている。避暑地には、皇太子をはじめアーネスト・サトウなどの上流階級の人々も訪れたというから、別世界であった。日光から戻ると、在京外国人による東京演劇音楽協会のメンバーとして活躍し、自らも出演するという忙しい生活に戻る。十月以降も、観劇、花見、旅行、晩餐…

戦争に便乗した二十八年の娯楽

…惣」が台湾征討、「植梅」が大舞台仙台萩、「植重」が国性爺紅流し、「燻風園」が日清戦争大箱庭数個、と趣向を凝らしている。 ─────────────────────────────────────────────╴ 明治二十八年(1895年)の主なレジャー関連の事象─────────────────────────────────────────────╴ 1月X浅草講演六区に西洋幽霊、元旦より開場1月Y藪入り、明治座客止め、各座も大入/読売1月Y亀戸の初卯参り、花柳界の人多く…

二十七年には娯楽にも戦時気分が

…も亀戸、向島などへ観梅サイクリングの記事がある。五月に深川警察は小僧や大憎が自転車を乗り回すのでこれを取り締まる。七月には宮田自転車が起業一周年の販売広告を出している。十二月には、自転車は馬より早いという記事。以上のようにこの年は、自転車の記事がやたらと目につくが、実祭には、まだ一部の人しか乗ることができなかった。当時の自転車は、庶民には手の届かない高級品であり、八年後の明治35年でも自家用自転車は、府下にわずか4571台しか普及していなかった。 三月、松旭斎天一が木挽町の厚…

二十六年は娯楽のピークか

…阿弥陀や亀戸近くの観梅に人出/読売4月M浅草観音開帳、葦簾張りや天幕が禁止され大傘500が並ぶ、五月まで日延べ4月Y神武天皇祭、灌仏会、花見と市内が賑わう4月M団子坂で菊人形までのつなぎに桜人形などを催す4月Y上野東照宮の祭礼、学生運動会などに多数の人出4月M四谷須賀神社の臨時祭礼、軍楽隊や手踊り5月Y演劇に似た見世物の興行禁止の通達5月H歌舞伎座の洋風建築が落成、初日、団菊左三俳優の顔合わせで大入り5月H新富座、初日無代、二日より大入場5銭5月Y日本美術協会の展覧会入場者2…

二十五年頃から庶民演劇に変化が

…は活発で、新聞には、梅見の屋形船の予約が多いという記事も、また初午の水天宮や上野公園の賑わい、佃沖や御台場の潮干狩り、サクラ・ボタン・フジ・ハナショウブ・アサガオ・ハスなどの花の便りが続いた。四月の学生の運動会は一日に10校も開催され、五月の藤見では「くず餅」が大人気。六月には、本所の東花園が東海道五十三次の盆景を出した。入谷の朝顔人形は、この年も大がかりな舞台が仕立てられた。盆踊りは、浅草観音や八丁堀の広小路などで流行し、夜中の十二時頃まで踊り歩いていた。このように四季折々…

分からぬ憲法に浮かれる庶民年

…田・亀戸・向島等の観梅に相応の人が訪れているが、まだ男性が大半を占め、女性は二割以下であった。三月になると、向島梅屋敷は、観梅に訪れる人で、休日でもないのに腰掛けが足りないほどだという。四月の花見は、どこも朝から人の山と書かれるくらいの人出。品川・台場付近の潮干狩りの賑わい。五月には、これまで無料で見せていた大久保のツツジを有料にするとの記事。大勢のファンの要望に応え、義士討入の活人形や吉良邸門を赤躑躅でつくるなど趣向を凝らした興行になった。夏の風物詩、入谷の朝顔市は、榎本武…

東京庶民の明治二十一年の楽しみ

…二月には、まだ早い観梅に人出と、行楽の足は絶えない。三月になると、東京各地の梅園に人出があり、特に彼岸には多かった。四月、上野から王子(飛鳥山)へと花見の臨時列車が運行、墨堤では花見のため諸車通行禁止、向島では混雑して渡しの桟橋が落ちる騒ぎもあった。五月には、小梅村の長春園では数百種のバラ園の便り。六月にもハナショウブの便り。七月の本郷・菊坂下の釣り堀では、数万匹のホタルが放たれた。猛暑であったことから、納涼場はどこも大繁盛で、花火もたびたび催された。 六月の氷川神社祭礼は、…

運動会が広がる明治二十年

…葛飾に新設された立春梅園のウメが満開となり、風流な庭園を多数の見物人が訪れた。四月に曳舟四ツ木の花やしきが開園。大久保のツツジは再び注目され、年々華やかになった。五月、堀切のショウブ園などへ多くの人が出かけていった。夏の風物詩、入谷の朝顔市は、華族から庶民まで続々と来訪し繁盛した。九月には、秋の七草で有名な向島百花園だけでなく、柳島の萩寺にも多くの人が出て賑わった。秋は、各地の菊人形に加えて、品川・海晏寺の紅葉も数十本植えましたこともあって見物客が多かった。このように江戸時代…

賑わいを取り戻す明治十九年

…初春興行。当時人気の梅坊主のカッポレを団十郎らが踊り大喝采を浴びた。藪入りは快晴で、市内は公園をはじめとして賑わい、各劇場は大入り、飲食店も繁盛した。二月の初卯は、早朝より店を出し参詣人も続々と訪れた。涅槃会(釈迦の亡くなった日)と初午が重なり、天気もよかったので寺社は賑わった。ウメがほころぶと、亀戸の臥龍梅へと観梅客が訪れ、日に40円の収入になったと。ちなみに、一月からそれまでに梅干し百樽を売りつくした。年間の収入は、花と実で千五百円、その他に梅酢で30円程あったと。 浅草…

明治十七年・江戸の遊びが変わり始める

…家」についての解説、梅ケ谷の優勝記事などがのり、再び人々が注目しはじめた。初日の木戸銭は、21円20銭(観客238人)と低調であったが、六月には十日間で3203円(観客3万8千人程度)の収入にまで増加した。これは三月に、平安末期以来絶えていた天覧相撲が芝浜離宮(芝延遼館)で開催されたこともあって、相撲の人気が再び盛り上ったことによる。前年までの相撲興行期間は、柳橋の茶屋や船宿、待合などが繁昌することはなかったが、この年の五月からは違うと書いてある。新聞には「相撲見物の質向上か…

コレラが及ぼす十五年の庶民の楽しみ

…報知2月Y亀戸の臥龍梅、小村井の梅園などかなりの人出/読売2月○東京府、劇場取締規則が布達2月C南葛西郡で狐踊りが大流行/朝野3月Y品川のサーカス、初日から大入の人気3月U上野公園内に博物館(日曜5銭平日3銭)動物園(日曜2銭平日1銭)が開園/上野動物園百年史3月Y竹沢藤治が浅草奥山で曲独楽興行し、大評判をとる3月 開店や大売出しに景品を出すことは、富籤類似行為と取締り3月Y本郷の春木座、総幕が出揃い大入4月 浅草本願寺で、観古美術博覧会(3~7銭)、天覧を賜る4月H回向院の…

現代より遊んでいる明治十一年の庶民

…東京絵入3月Y蒲田の梅屋敷、巣鴨の群芳園のウメ盛り4月Y芝の出世弁天祭礼、甘酒や接待や神楽で賑わう、矢場の女目当ての客も4月C西南戦争の狂言が流行⑨4月K上野と芝の東照宮祭礼賑わう/かな4月K新井薬師開帳で大賑わい、延長を申請5月Y深川と佃島の漁師が船祭、品川の台場近くまで出て飲めや歌えの騒ぎ5月Y横浜根岸競馬場で外国人が競走、観客多数5月Y築地海軍操練場で外国人が運動会6月L亀井町亀甲亭で、矮人(小人)の見世物の興行/東京絵入6月Y浅草浅間神社祭礼、麦藁の蛇売れず6月Y水泳…