梅 の検索結果:

江戸時代の椿 その2

…すら中頃の事にて音は梅をこそ申したんなる、共時世にもはで珍るを押立、此花と云へぼ今は椿の事にぞあるべき」とある。ところが、烏丸光広には、同年『椿花図譜』を著し、619種のツバキを紹介したという説もある。 そして、その翌年(1635年)、江戸でも、松平伊賀守忠晴の手による『百椿図』が出されたとあるが、その図は残っていない。『百椿図』が存在したという根拠は、林羅山が書いた序文が残っているからである。忠晴は、ツバキを愛好していたものの、公務に追われてなかなか思うように栽培できない。…

江戸時代の椿 その1

…)十一月廿六日朝 梅 つはき 寛永五年(1628) 二月十六日朝 椿 寛永五年(1628) 二月十九日朝 椿 □梅 寛永五年(1628) 二月 廿日昼 椿三色 寛永五年(1628) 三月 三日朝 桃 椿 寛永五年(1628) 九月十九日朝 かきつはた つはき きく 寛永五年(1628) 九月 廿日朝 つはキ 茶山花 寛永五年(1628) 九月廿六日朝 赤キ椿 水草 寛永五年(1628) 十月 四日晩 咲分ノきく 小椿 寛永五年(1628) 十月 九日晩 きく つはき…

江戸の盆栽 8 鉢植の用途

…日に「西都より鉢うへ梅三ツ貰ふ(西王母・飛鳥川・八重春軸)」とある。 四日には「姉君より御文、海石榴鉢うへ二ツ・白梅一ツを賜ふ」と、ツバキを二鉢、ウメの鉢植を一つ頂いている。鉢植のやりとりはこの後も続き、九日「八重児紅梅を進む」、十日「梅鉢うへ五ツ貰(難波紅・桜かひ・春軸・児紅)」。十二日にまた、上記に加えて「鉢殖節分梅を貰ふ」とある。その後、しばらく鉢植は贈られていないが、十九日に「香りふかき白梅の穂を賜ふ」、二十日に「大垂小垂梅の穂来」と、蕾や花の付いたウメの枝をもらって…

江戸の盆栽 6

…あろう。 「唐蝋梅」は、ロウバイ科の「トウロウバイ」。 「鶴蘭」は、ラン科の「ツルラン」。別名「ナツエビネ」ともいう。 「榕樹」は、クワ科の「ガシュマル」。 「羅漢まき」(地ぼり)は、マキ科の「ラカンマキ」。 「桂樹果」はわからない。「チョウセンカラマツ」を「桂樹」と書くことがある。 「酔芙蓉」は、アオイ科の「スイフヨウ」。 「琉球棕櫚竹」は、ヤシ科の「カンノンチク」。 「白コケソテツ」はよくわからない。ソテツ科の植物と思われるが不明。 「木タチバナ」はよくわからない。ヤブコ…

江戸の盆栽 5

…る。 「たこ作り梅」は、ウメの作りものの盆栽であろう。 「石菖有栖川」は、サトイモ科の「セキショウ」の園芸品種。『牧野新植物図鑑』には、「小さいものをアリスガワゼキショウ」と記されている。現代では、ポット苗として通信販売で求めることができる。値段は千円以下である。 「正宗類」は前記セキショウの斑入りの種類か。 「牡丹葉延胡索」は、中国原産のケシ科「ケマンソウ」か。「延胡索」は生薬。「牡丹葉」が付いていることから園芸品種として売られていたのだろう。 「漢種淫羊藿」は、中国産のメ…

江戸の盆栽 4

…『草木育種後編』の盆梅(左図)と『市美弥景姿の福贔屓』の盆松(上図)を紹介している。この樹形が「蛸作り」であるとすれば、目の敵にするような樹形ではないような気もするが。 「蛸作り」の盆栽を特に非難しているわけではないかもしれないが、「必然性がない針金仕立てのタコ作り」とか、「ゼンマイのように針金で曲げたタコ作り」というような表現を見ると、ちょっと気の毒な気になって弁護したくなってくる。岩佐は「明治中期の頃、大阪の好事家通称『淀亀』が針金掛けを創案し、これを大阪の業者が採用して…

茶庭 9 千利休その5

…は、鶴の嘴花入れに白梅が使われた(宗及の茶会の記録)が、なぜかこの茶会については無視している。永禄九年の茶会についても、有名な「ナラ柴カタツキ」が記されているが、利休はこれを所持していないはずなのに、使用したと記載されている。著者(湯川制)も『南方録』の茶の湯を開催した日時や客について、いろいろと推測し、疑問を持っていたことは確かなようだ。が、にもかかわらず、茶会が行われた年の不明な挿花まで記録の対象にしていることは、やはり気にかかる。 この本で取り上げた「花材の記録は五十九…

江戸の盆栽 1

…道五軒町・酒井候跡、梅園開く」 明治6年2月武江年表「浜町一丁目に梅園を開く」 明治6年4月武江年表「池田候邸跡の貨食舗、中島に樹木植える」 明治6年7月武江年表「松平下総守邸跡に伊勢大神宮を建立、山池を築き・四季の花木を植える」 明治6年9月武江年表「芝山内茶店の庭に菊の造物出来る」 明治7年2月郵便報知「筋違見付跡、万世橋辺に梅桜の花木二百本余植える」 明治7年3月郵便報知「廿日より二十二日まで巣鴨一丁目於新梅荘盆栽の大会」 明治7年4月郵便報知「吉原仲の町に、恒例のサク…

茶庭 3 豊臣秀吉その1

…水を張り、その横に紅梅の枝を添え、利休にこの梅を鉢一ぱいに生けよと指示した。利休は枝の花と蕾を鉢の水面にしごき、風情ある景色を見せたという。この話などは、茶会の場所も日時も定かでない明らかに逸話である。また、秀吉が利休の庭に朝顔を見に出かけたという、有名な朝顔の逸話など、秀吉の花への関心を連想させることはできるが、やはり真偽のほどが疑われる。そのような中で、花について場所と日付が確認できるのは、天正十五年十月二十一日に大坂城の山里丸で催した茶会の小車、天正十八年九月二十三日に…

江戸のくだもの 1

…なると、梨、棗、瓜、梅、柑子など、平安時代には果物の種類が非常に多くなり、柚、枇杷、石榴、蓮子(ハス)、通草(アケビ)、椎子・柿などが登場する。この頃になると、果物の食べ方も多様になり、そのまま食べるだけではなく加工して食べることも始めている。カキは、干柿、熟柿、串柿にし、クリは、搗栗、甘栗、削栗などにして食べたようだ。 鎌倉時代には、すでに果樹の積極的な栽培が行われていたらしく、文治二年に甲州ブドウの栽培の記述がある。その他、澤茄子などの記述も残っている。室町時代には、外来…

ガーデニングを楽しむ 3

…蓮(『清香画譜』)、梅(『梅津之波』)などを図譜として残している。これらの花は、築地に造営した浴恩園で生育していたものである。そして、花だけでなく庭の絵を谷文晁に描かせている。定信は、庭も植物が枯れるのと同じようにようにいずれ消えてしまうことを予想して絵として残したのである。 また、江戸時代の作庭書に『築山庭造伝』前編・後編というのがある。前編は北村援琴斎が著し、後編は秋里籬嶋が前編を踏まえて、実際に名園を訪れて模写し、より実践的になるように書いたものである。その内容は作庭に…

馬琴のガーデニング 1

…メも良く実った。豊後梅が三升五合(6.3リットル)、野梅が二升(3.6リットル)もとれて、これは自家用の梅漬けにしている。また、リンゴは、とても大切にしていたらしく、虫が付くと小管で塩水を吹き入れたり、花火でいぶしだしてみたりとこまめに世話をしている様子が伝わってくる。他の果樹、カキやスモモなども実がよくついたようで、ザクロを近所の悪童に盗まれたりしている。 エンドウ、ナス、ニガウリ、カラマメ、トウガラシ、インゲンマメなどの野菜の記述もあるが、その種類は案外少ない。馬琴という…

ハナショウブ

…正孫右衞門が園中に、梅樹また花菖蒲、其餘四時の草木を植えて、盛の頃、諸人の縦観をまつ、寺島村里正三七が園中も、又花菖蒲其餘の草木多し、本所四目植木屋文藏、芍薬の數種を養ふ、開花の頃、諸人遊賞せり」とある。ハナショウブの人気は長く衰えず、『武江年表』の、安政五年(1858)五月に「吉原仲の町往還へ、花菖蒲を栽ふる、・・・・」と花街の彩りとして植えられていたという話が出ている。ただ、萬延元年(1860)五月の記述には「角筈村十二社權現境内に、花菖蒲を栽る、遊觀多し、一兩年ニシテ廢…

江戸のサクラとお花見  その3

…原仲之町で季節ごとに梅や桜の植替える、夜桜の初め 1757年 宝暦7年 ○『櫻品』(松岡玄達怒庵)サクラ六十九品の図説 明和年間 ○長命寺門前の桜餅流行る 安永年間 ○『櫻花帖』(三熊花顔)サクラ三十六品の彩色画帖 1793年 寛政5年 ○浅草奥山に、再度桜が植えられる 1797年 寛政9年 ○『櫻花藪』(三熊露香)サクラ三十五品の彩色画帖 1801年 享和1年 ○この頃から小金井村の桜見物ふえる 1803年 享和3年 ○『花譜』(市橋長昭)サクラ三十四品の彩色画帖 享和年間…

大江戸名木評判記

…実も七パターンあった梅 武州(武蔵国)には場所柄か名木・奇木が数多く存在した。中でも作者が強く勧めているのは、小平村・春貞寺境内にある「七色咲き分けの梅」という名木である。木の高さは九尺あまり、左右に枝が張り出し、枝は七階に分かれる。ただし「七色」がさてどんなものであったのか、具体的に説明がないのは残念。まさか虹のように変化するとは思えないから、おそらくは白に薄い桃色から紅までの濃淡の咲分けだったのだろう。 「花形たぐいなし、七色の梅花遅速なく、同時期に満開して名木の称あり」…

七草 続

…、歌川豊国の「小村井梅園 秋の七草」同じく豊国の「東京都年中行事八月向島花屋敷 秋の花園」、鞠塢と親交があった酒井抱一の手による「秋草図屏風」などがあげられる。これらの作品が当時の七草人気を背景に描かれたものであることは、むろん言うまでもない。 文化文政以降、それまでは「秋の七草」の一つに過ぎなかったナデシコが一躍、園芸界の注目株になった。当時の江戸の園芸界においては、折しもツバキ、カエデ、キク、アサガオなどのいくつかの大流行を経た後、好事家たちは一様にいわゆる「狭く深い」世…

七草

…原平八)である。彼は梅屋敷が評判をとっただけでは満足しなかった。 わずか一町歩ほどの土地を草庭として売り出そうとし、そのいわば、ありふれた雑草園の中のアクセントとして彼が考えをめぐらして選んだのが、春秋の七草であった。 俳諧季寄図考より 彼はまた、『春の七草考』『秋の七草考』という自著をものし、自園のパンフレットとして好事家に配ったりもしている。外見は他の雑草と大した違いはなくとも、「あの詩経に出てくる・・・」「あの万葉集にも詠まれた・・・」草となれば話は違ってくる。町民文化…

信長・秀吉に始まる江戸のガーデニング

…シ花瓶 ヌリ板ニ 白梅沢山ニ、上様御生被成候」と、信長が白いウメを何本も生けたという記載がある。花瓶は、本能寺の変の前日(天正十年六月一日)、信長最後の茶会に「つくも茄子」などの名物と共に使われたものである。花を生ける際には、宗久を通じて知遇を得た利休が係わったようだが、花の選択には、当然、信長の嗜好が強く表れているものと思われる。なお、天正元年は、織田信長によって十五代将軍義昭が京都から追放され、室町幕府が二百三十七年間の幕をおろした。 信長の性格からいってウメの花、それも…

江戸の植木屋  その2

…って当然であった。新梅屋敷(現在の向島百花園)経営にしても、ウメという移植の容易な木を使い、既存の雑草を最大限利用して短期間(樹木による造園では少なくとも3~5年の年月が必要)で観賞に絶える草花園にしている。そして、アイディアだけで百花園を思いついたのではなく、植木屋としての技術的な裏付けをもとに作り上げたのである。彼が商才に長けていただけでなく、文学などにも素養のあったことは、文化元年(1804)に『成音集』を刊行、また『都鳥考』『群芳暦』等の版元になっていることからもわか…

江戸の植木屋 その1

…山茶花等を作る者、⑦梅桜の類を作る者、⑧地植斗をする者、⑨庭造にも茶の庭を造る者、⑩岩石庭とて岩ぐみ其外石をたくみつかふ者、以上十種もの植木屋をあげている。また、流派の違いなどもあって、実際にはさらに五六十に細かく分類されていたようだ。 次に、植木屋がどこにあったかということだが、巣鴨、染井、駒込、小石川、千駄木、田畑、根岸、三河島、本所、向島、亀井戸、また四谷、赤坂、青山、麻布、芝、目黒など江戸周辺に数多く分布していた。そして現代でも、たとえば、郊外の大型園芸ショップなどが…

武士のガーデニング

…皆、○○の桜、○○の梅、と冠名がつくような木や草に夢中になれたのかといえば、むろんそんなことはない。例えば慶安四年(1651)に江戸城内の堀や石垣近くでの菜園づくりが、禁止されていることからもわかるように、意外なことに屋敷内で野菜をつくらせていた武士が大勢いたのだ。下級武士は当然のこと、格式・プライド共にも高い大名や旗本の中にも野菜作りに励んだ人は少なくなかったようだ。 ・園芸は貧乏旗本の手内職だった!? 下級武士ならいざ知らず、大名や旗本までもが、ナスやキュウリを植えていた…

梅にまつわる話

梅にまつわる話 その1 ・ウメの人気は万葉の昔から 「梅は咲いたか、桜はまだかいな」と唄の文句を引き合いに出すまでもなく、ウメはサクラと並んで、古来から多くの人々に愛されてきた。ウメは万葉の中期に日本に伝わったと言われているが、アッという間に当時の人々の心をさらった。万葉集にはウメを詠んだ歌が多く、実に119 首も登場する。サクラの41首と比べるとはるかに多く、当時はウメの方が人気が高かったものと思われる。その理由としては、当時の日本では何事も中国をお手本とする風潮があり、か…

大江戸野菜事情

…実を採取して自家製の梅干しをこしらえたり、四百個以上の柿を親類や知人に配ったり、クチナシの実を近所の薬種屋に渡して、それと引き換えに当時は貴重品であった砂糖と交換したり。実益を兼ねた園芸を一家で存分に楽しんでいる様子がうかがえる。そんな小野家だから、立派な野菜畑があるのも当然の話。 主な作物はインゲンマメ、チシャ、アキナ、ツルナ、ラッキョウ、イモ、ヤマイモ、トウガラシ、ナスなど。下肥を手に入れるためにくみ取りにやってくる百姓から、その代価の一つとして野菜の苗を持ってこさせたと…

江戸のオープンガーデン

…久啓である。彼は、「梅顛」(梅マニアの意)と呼ばれるほど、梅を愛好した旗本である。春田久啓こそ、まさしく日本版オープンガーデンの先駆者ともいえる人物である。彼は四谷御門外の広大な屋敷を様々な種類の梅の木で埋め尽くし、文化九年には『韻松園梅譜』(1812) というタイトルで、自慢の梅96品を図写した色彩画帳を出版した。 しかも、気前の良い久啓は、私設梅林の走りとなったその自慢の庭園(韻松園)を、大勢の庶民に無料で公開して、おおいに歓迎された。ガーデニングを楽しむ人には、自分が丹…