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大恐慌四十二年の娯楽

…40大恐慌四十二年の娯楽四月種痘法公布/十月伊藤博文ハルビンで暗殺・大恐慌下の市民レジャーはさほど変わらず 東京は大恐慌である。市内の人口は寄留人口を整理して53万人と、約25%も減少し163万人になった。これは、帳簿上の整理で人口が減少しただけではなく、実際にもかなり減っている可能性がある。演劇や寄席の観客数はそれぞれ408万人から347万人へ、456万人から396万人へと、5%、13%減少した。また、見世物は逆に521万人から732万人へと40%も増加している。演劇、寄席…

不況でも四十一年の娯楽は盛況

…9不況でも四十一年の娯楽は盛況六月赤旗事件/十月戌申詔書/十一月高平ルート協定成立・不景気でも劇場はどこも大入り 銀行の支払い停止が前年から続いているような状態で、景気はさらに悪化していた。しかし、大衆のレジャーは前年を上回る勢いで伸びている。正月から市村座をはじめ各劇場は、大入、好人気などと新聞広告を出すほどの盛況。麹町有楽町の旧五二館跡で興行したチャリネ曲馬団も、特等70銭~三等15銭と入場料は決して安くなかったが好評。呼び物は、半哩(マイル)競争や障害物競争などの子供の…

四十年戦後不況でも庶民娯楽は盛況

…十年戦後不況でも庶民娯楽は盛況二月足尾鉱山で暴動/七月第三次日韓協約調印・戦争恐慌下の東京勧業博覧会 一月、東京株式市場の相場が暴落し、日露戦争後の恐慌がはじまった。不況は労働争議を激化させ、この年は、全国で165件と明治年間で最も多く、過激なストライキが発生した。全国的に低所得層の生活が厳しくなり、東京も例外ではなかった。仕事を失い、東京に住めなくなる人が多数でてきた。そのため、それまで増加の一途であった東京市内の人口が減少するという現象が起きた。しかし、なぜか東京の大衆は…

戦争の後を引く三十九年の庶民娯楽

…を引く三十九年の庶民娯楽三月鉄道国有法公布/十一月南満州鉄道株式会社設立・戦後の落ち着きを示す行楽の人出 元旦の読売新聞には、お楽しみとして、劇場や寄席のプログラムが掲載されている。16劇場のうち14座が芝居、2座が奇術と浄瑠璃、寄席はあまりにも数が多くてすべてを紹介することができないくらいである。元旦は曇りであったが、初日や初詣に多くの人出があり、日露戦争によって抑えられていた大衆のレジャーが、復活しはじめたことがわかる。一月の回向院の大相撲は、晴天が続いていることもあって…

戦勝に酔えない三十八年の庶民娯楽

…えない三十八年の庶民娯楽一月旅順のロシア軍降伏/五月日本海海戦/九月日露講和条約締結・戦争に勝ったけど・・・ 正月二日、旅順陥落の朗報が入る。三日の新聞には、戦勝の余響で初出も景気がよさそうと、書かれている。しかし、二日後には、好天に恵まれたにもかかわらず初卯の参詣人はチラホラ、全般に不景気と論調を変えてしまった。その後、初水天宮や初巳には、大勢の人々が参詣し守り札を買い求めているが、店の売り上げをあげるまでにはならなかった。日本橋区や深川区の板ガラス組合や小間物化粧品組合、…

娯楽も戦時色の三十七年

…庶民の楽しみ 135娯楽も戦時色の三十七年二月日露戦争勃発、日韓議定書締結/三月旅順で広瀬中佐戦死・日露戦争下のレジャー事情 前年より新聞は政府の意を受けて、強硬外交論を唱え、開戦へと世論を誘導した。大衆の対悪露感情を悪化させることによって、非戦論は完全に押さえ込まれ戦争へと突き進んでいった。二月、ついに日露戦争が始まる。大衆のレジャー活動にブレーキがかけられる一方で、戦捷祝賀会がたびたび催された。仁川・旅順での戦況についても、まだ戦いは始まったばかりなのにまるで勝ったかのよ…

三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争

…み 134三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争四月政府対露方針決定/十月小村外相とローゼン露公使の交渉開始・人気役者が消え、客離れの進む歌舞伎 この年、二月に五代目尾上菊五郎が死去、後を追うように九月には九代目市川団十郎が世を去った。それでなくても劇場への観客の足が遠くなっている時期である。歌舞伎の二本柱を失ったことは、演劇界に大きな衝撃を与えた。劇場観客数は、前年より51万人減少して285万人となった。演劇、特に歌舞伎を大衆が気軽に見に行くようになったのは、明治になって、それ…

明治三十五年に忍び寄る不景気の娯楽

…年に忍び寄る不景気の娯楽一月八甲田山で青森歩兵第五連隊遭難/日英同盟調印・上野動物園は賑わうが停滞気味の市民の行楽 一月、上野動物園にドイツのハーゲンベック動物園からライオンとホッキョクグマなどが新たに入園した。ライオンやホッキョクグマなどの人気は高く、この年から入園料が大人四銭、小人二銭と二倍に値上げされたにもかかわらず、入園者は前年より30万人以上増加して史上最高の約95万人の人々が訪れた。二月、日英同盟協約締結を受けて祝賀会がいくつか開催された。もつとも大衆を巻き込むよ…

20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽

…入るも変わらぬ庶民の娯楽二月福沢諭吉死去/五月社会民主党結成も2日で禁止/六月星亭暗殺・二十世紀を迎えるエリートの祭 明治三十四年は、イコール西暦2001年と、ここからは二十世紀を迎える。慶応義塾では、「十九世紀・二十世紀送迎会」が催された。運動場では五つの大きなかがり火が焚かれ、カンテラが並べられ、「官尊民卑」「守銭奴」「階級制度の弊害」「妾の悪習」などの十九世紀の風刺画と、「独立自尊」「文明の光」「四海を照らす」「社会の灯(トモシビ)」など、二十世紀に期待する言葉を大写…

三十三年頃から徐々に盛り上がる娯楽

…から徐々に盛り上がる娯楽五月皇太子成婚式/六月義和団事件で日本出兵/九月立憲政友会結成・平和を反映し市民のレジャーは盛り上がる 浅草は、元旦から大勢の人々が訪れている。当時、市民の間で、三箇日に観音さまを初詣して、浅草公園で遊ぶというスタイルが定着していた。特にこの年は、「近来人の耳目を引く観覧物」と新聞に書かれた珊瑚閣が開業、前年十月にオープンした水族館も相まって賑わいを増した。珊瑚閣には、高さが二三尺、目方が三四貫もある特大の桃色珊瑚が陳列。桃色珊瑚は、学術上も装飾品とし…

多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締

… 130多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締三月義和団事件勃発/七月明治天皇、東京帝国大学卒業式で銀時計授与・盛んになる行楽活動にしのび寄る取締り 東京の町は、日清戦争から五年たって、ようやく落ち着きを取りもどし、庶民も正月らしさを味わえるようになった。たとえば安政の大地震以降絶えて久しい、隅田川七福神めぐりが復活したという記事がある。七福神めぐりは、幕末の頃流行したが、明治になって徐々にすたれた。それが三十年以上経って再び流行のきざしを見せ、以後年々盛んになった。初詣に託つ…

不景気明治三十一年の娯楽様相

…不景気明治三十一年の娯楽様相六月隈板(わいはん)内閣成立/八月尾崎行雄の共和演説/十二月地租増徴案成立・不景気で行楽の人出も今一つ 亀戸妙儀の初卯は、天気に恵まれ大勢の人が出たが、財布の紐は固く飲食店の売り上げはのびなかった。劇場の正月興行は、歌舞伎座などを除く14劇場で催されていた。当時の観劇料金は、最も高額の春木座の桟敷が3円70銭、安い桟敷は開盛座の50銭。最も安い大入場も同じく開盛座で3銭である。桟敷の料金は、劇場によって大きな差があった。一方大入場は、高くても10銭…

明治三十年に始まる映画という娯楽

…年に始まる映画という娯楽 三月足尾鉱毒被害者二千人上京/十月金本位制度実施・活動写真が始まる 真偽のほどはともかく、明治30年以前にも活動写真が東京で行われ、喝采を博したが経費倒れになったという話がある。しかし、活動写真が広く東京市民に受け入れられるようになったのは、30年からである。一月に浅草花屋敷でキネトスコープ(のぞき見式活動写真)が封切られ、二月には小山内薫がそれを見ている。新聞の見出しには、「写真の活働」とあり、「活動写真」ではない。上映されていたのは、「連発銃射撃…

明治の遊びが始まる中期

…草公園は、旧来の庶民娯楽の充実と平行して、動物園や十二階の凌雲閣などの整備にも着手、明治時代を代表するレジャーセンターになった。そして、レジャー産業が萌芽した。 ─────────────────────────────────────────────╴ 明治二十九年までの主な事象─────────────────────────────────────────────╴ 明治十六年 1883年 四月新聞紙条例改正/七月教科書採択の認可制度実施/十一月鹿鳴館会館会館明治十七年…

戦争に便乗した二十八年の娯楽

…に便乗した二十八年の娯楽 四月日清講和条約調印、三国干渉/十月閔妃暗殺・戦勝に浮かれるが市民の娯楽は尻すぼみ 日清戦争は、国民皆兵、国力のすべてをかけて戦う。したがって、傍観者的な行動は許されない。だが、外国との戦争というものを実感できない市民は、実際に戦場を目にしていないこともあって、まだ勝敗が決まったわけでもないのにお祭のような戦捷祝賀会を催した。東京では、戦争が始まった時点で、日本の勝利を暗示する芝居が上演され、日本にとって有利な情報だけが報道された。それで市民は、まる…

二十七年には娯楽にも戦時気分が

… 124二十七年には娯楽にも戦時気分が 三月朝鮮で東学党の乱/七月条約改正なる/八月日清戦争勃発・戦争に向かっても、市民レジャーは変わらず 一月の新聞に、前年設立された日本輪友会が上野から王子方面に郊外サイクリングを実施したという記事がある。また、華山子爵の令息が京都に向けて東海道サイクリングに出発した。二月にも亀戸、向島などへ観梅サイクリングの記事がある。五月に深川警察は小僧や大憎が自転車を乗り回すのでこれを取り締まる。七月には宮田自転車が起業一周年の販売広告を出している。…

二十六年は娯楽のピークか

…み 123二十六年は娯楽のピークか 三月郡司大尉千島探検出発/六月福島中佐シベリア単騎横断より帰国・インフレにも変わらぬ市民のレジャー 一月の新聞に、「丁稚小僧の休日は一年に唯二回」と休日の増加を求める記事が出ている。今では大半の人が週休二日になっているのに比べて、当時の商店などで働く人々は休暇に恵まれていないことがわかる。その一方で、三カ月前に改正された内閣・官庁の執務時間に関する記事には、「流石(サスガ)はお勤め根性」と八時間労働にも文句をつけている様子が書かれている。…

二十五年頃から庶民演劇に変化が

…にほかならず、市民の娯楽嗜好にも大きな変化が起きていたと見るべきだろう。 寄席についてみると、芸人の種類と人数が大きく変わっていた。明治19年当時、義太夫(1246人)、昔話(782人)、常磐津(609人)、講談(426人)、長唄(371人)、手品(234人)などの多くの芸人たちがいたが、時流にあわない芸能ほど携わる人が減少した。減少率が最も高いのは、常磐津で90%、昔話が59%、長唄が57%、手品が50%、義太夫が43%、講談は40%の割合で減っている。むろん、すべての芸人…

二十四年に花開く明治ならではの楽しみ

…しかし、政治を庶民の娯楽の中に取り入れようと試みたたものの、選挙権のない人々を自由民権運動へと駆り立てることは所詮無理であった。芝居の内容も彼の期待どおりには理解されず、多くの大衆はナンセンス芝居として受け入れたにすぎなかった。 当時の取締りは場当たり的で、それまで許されていた祭の踊屋台が、九月の愛宕神社祭礼で差止められ、その上、店先での踊りも往来の妨害になると禁じられた。ところが、五月に末端の警察官に差止めの通達がでた「女の力持ち」は、10月の池上本門寺の会式に、両頭の牛な…

明治十八年・明治の浅草がスタート

…ぬ遊びが盛ん 高額な娯楽が沈滞する一方で、お金のかからない行楽は盛んであった。特に花見は、隅田川、浅草、上野、飛鳥山などはどこも大勢の客で賑わったらしい。向島の八州園の花見所では、2銭の入園料を徴収した。飛鳥山には、小石川砲兵工廠の職工3百余人が揃いの袷、手拭い、下駄で、牛込の芸妓を25人も引き連れて繰りだすという豪勢な花見もあったらしい。反対に、上野で開かれた「どぶろく観桜会」は、会費わずか5銭たったという。この年最も賑わったのは19日の日曜日、隅田川では、浄瑠璃の素人連、…

明治十七年・江戸の遊びが変わり始める

…この頃は、江戸時代の娯楽そのままといったものより、昔を偲ぶという形で企画されたり、再現されるものが目立った。二月の千住で催された撃剣会、見物人の飛び入りもあって荒試合となり人気を呼んだ。三月には江戸時代のツツジの名所であった大久保百人町が、再びツツジ園として開園されると、新聞に載った。五月に繁華になった下谷佐竹原も、吹矢場や見世物などが中心となっている。六月の祭礼では、内藤新宿鎮守三光稲荷が獅子頭を新調して山車や手踊りを繰りだした。日枝神社も、前年新調した神輿に山車17両と踊…

コレラが及ぼす十五年の庶民の楽しみ

…もかかわらず、庶民の娯楽、特に下層階級の娯楽活動が活発化している。前年の正月に比べて、見世物の観客が74%、道化踊が36%、寄席は29%が増加した。料金の高い劇場については、所得者層の懐具合が良くなっていないせいか、一月こそ観客は4%増えたものの二月以降は逆に減少している。それに対し、見世物などは、二月、三月に入っても観客数は、増加傾向を持続している。なお、道化踊は、前年あたりから流行しはじめたらしく、三月に下谷一丁目、芝森本町、牛込赤城町、深川森下町の4ヶ所三座で、道化手踊…

不景気で変わる明治十三年庶民の楽しみ

…いる。 不景気の影を娯楽関連の資料から示すと、寄席の観客数は前年度と比べて9万人(額では18%)減少し、337万人になった。見世物は、観客数が8万人と15%減少して49万人。劇場の観客数は、四月に市村座が一人につき一銭で見せて大入りを取ったことなどがあってか、人数こそ⒈5万人程度の減少ですんだものの、金額にすると16%も減っている。また、室内遊戯場の税金が18%も減少したことは、利用者数も同じくらい少なくなったものと考えられる。東京の人口が年々増加する中で、有料娯楽を楽しむ人…

新旧娯楽を楽しむ明治十二年の庶民

…の楽しみ 108新旧娯楽を楽しむ明治十二年の庶民四月沖縄県設置/八月前米大統領グラント来日/九月教育令・相撲界は混乱が続く 当時の新聞から娯楽に関する記事を捜すと、正月に、「紛糾し、力士が大勢脱走す」という見出しがある。前年から両国での興行が許された大相撲だが、どうやら内輪もめがあったらしい。このため、九日の初日が十三日以降に延びた。また五月、相撲興行の前祝いで、力士が二人が泥酔して褌のまま踊りだし、拘引された。翌月には、力士相手に飲んでいた行事が苦情に腹を立て、料理屋の座敷…

現代より遊んでいる明治十一年の庶民

…、寄席が庶民の最大の娯楽であったことは、観客数を見ると容易に察しがつく。約380万人ということは、平均すると東京市民が一人当たり一年に約五回訪れたことになる。おそらく寄席がかかっている日は、連日のように通っていた常連が大勢いたのだろう。いうまでもなく客の大半は庶民であり、仕事が終わった後にほっと一息つく、恰好のレジャーとして庶民の間にかなり浸透していた。 次に、見世物の観客数についてだが、臨時の興行や大道芸のようなものも含めると、実際には61万人を優に超えるだろう。市民が見世…

明治十年さらに強まる遊びの制約 

…7)になると、庶民の娯楽を制約したり、禁止したりする動きがさらに強くなった。二月、市街で凧揚げ、羽打ち、独楽等を行うと交通の障害になるという理由で禁止する布達が出された。楊弓店の増加に対しては、風紀の悪化を防止するため楊弓店取締規則が定められた。それは、楊弓店は表向き、大小様々な的を弓で射る遊び場であった。が、そこには「矢取り女」と呼ばれる化粧をした女がいて、客は弓よりそうした女たちを目的に訪れていたからであった。 五月には、神田花岡町や飯田町の空き地で行われていた、木戸銭1…

新たな遊びが増える中、江戸の遊びが制約される

…時期になると、市民の娯楽にも欧米の影響が少しずつあらわれており、七月の寄席に、ヘンリイ・ブラックという米国人が手品を見せている。・猛暑に「滝」が大流行 一方、江戸時代からの行楽も、引き続き人気が高く、初詣・出初式と正月から活発である。三月にはウメの名所である大森村の梅屋敷が賑わい、彼岸の浅草は、天気がよいこともあって大賑わいだった。四月は花見に開帳。向島では、女装や高歌放吟で逮捕者がでるほどの騒ぎであった。州崎の浜には潮干狩りの人の群れができた。ハナショウブも人気があったと見…

不景気が始まる明治八年

…しれない。当初水泳は娯楽というよりも、江戸時代からの兵法の一術として政府が奨励した。それを民間が受け、公有水面の拝借許可を得て水泳道場を開設、一般の人にも広まっていったもの。明治六年、北本所表町の石置場において、「水泳稽古」の生徒募集を行った。水泳稽古には、様々な規則があって、現代の感覚からすればなかなか厳しそうだ。稽古は、午前八時に始まり午後六時までだが、その間道場から出ることは許されず、弁当を持参するか取り寄せるようにとなっている。また初心者は、素肌に水下帯だけにして、衣…

江戸の終焉・明治七年

…も安く、庶民の手軽な娯楽として興行され、部屋の造りや演目にも江戸の匂いが色濃く残っていた。その一方で、十月、京橋の松邑亭では新聞記事を題材にした講談を伯円が演じるなど、新しい試みも喝采を得ていた。十一月には、大阪から上京した竹沢弥七が、浅草田原町三俵亭で普通の三味線の二倍の大三味線を自由に弾きこなし、またたく間に人気者となった。 この時期になると、駕籠を見ることもなくなった庶民は、日々に大きく変化する東京を肌で感じはじめていた。時代の流れに何の抵抗もできない庶民は、そうした変…

太陽暦が始まる明治六年

…いる。当時の日本人の娯楽は、西欧人の目には全く異質なものと映ったようで、特に庶民の行動は理解しがたいものだった。ブスケは、見すぼらしい恰好だが上流階級よりもむしろ楽しげに遊ぶ庶民、またそうした人々のあっけらかんとした性感覚など、当時の庶民の生き生きとした様子を記している。 江戸時代と同じような見世物としては、回向院に活人形の化け物(約9m大黒天の巨像)が出ている。下谷元おなり道東側裏で、手妻軽業綱渡りの入る歌舞伎狂言が芝居として興行されている。また、川崎大師では、虎と豹の見世…