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大正時代に衰退する娯楽・レジャー

… 大正時代に衰退する娯楽・レジャー・娯楽の盛衰 時代の変化を感じさせるのは、衣食住であるが娯楽も同様である。その変化は、娯楽の方が早く展開し、顕著であるように思う。生活様式は、なかなか保守的であり、住宅などは耐久年数が長いことから変化が遅い。早いのは、やはり衣服の方であろう。後の人たちが見ると、衣食住の形がアンバランスを感じるのだが、当時の人たちはそれが自然であった。 娯楽の変化は数年で進むことがある。映画の浸透は著しく、娯楽全体に及ぼす影響が大きく、大正時代ならではの現象で…

大正時代の三大レジャー

…時代に最も楽しまれた娯楽・レジャーは、映画・博覧会・花見である。これらは、大正期に最も多くの東京市民が楽しんだ三大レジャーといえる。その規模は、市民の半数以上(延べ100~1000万人)が参加又は動員されている。また、レジャーという意識はあまりないものの、心身のレクリエーションに非常に効果があったと思われる参詣・参拝も大勢の人々が行なっていた。 博覧会、様々な珍しい物品を展示するイベントは、明治時代から催されていた。人々に科学技術や芸術文化などを示し、一般社会の知見を高め、産…

大正時代の余暇事情と娯楽レジャー

…大正時代の余暇事情と娯楽レジャー・大正期の人口と余暇事情 大正時代は15年あるものの、実質14年であった。その間の娯楽の変化は明治期より大きく、また、続く昭和戦前までよりも見るべきものがあった。市民が積極的に楽しむ娯楽は、大正ロマンとでも言えるような活気と変化が感じられる。ただ、すべての市民が共通して享受したかといえば、否、必ずしもそうではなかった。目新しいレジャーやスポーツ、大正ロマンを感じさせる活動の主な担い手は、中流以上の階級の人々がになっていた。それでも、大正ロマンの…

大正十五年後期 大正時代終焉の娯楽

…後期 大正時代終焉の娯楽 この年は、景気の低迷を反映してか正月の人出が少なく、十二月になっても回復しなかった。地域の祭りや縁日などにも以前ほど参加している様子が見られず、人出はあってお金は落ちず、不景気が浸透していた。市内で活発に遊んでいるのは学生で、野球などスポーツ関連の活動が盛況である。とは言っても、人数は学生野球はお会式の一割である。景気づけなのだろうか、新聞は、下層の市民には関係ない学生スポーツを取り上げていた。そして、天皇陛下の病状が悪化は、ラジオ放送は演芸番組を中…

…がった。また、新たな娯楽も増え、娯楽の多様化は、夏のレジャーにも顕れた。上流階級の避暑は明治から行なわれていたが、庶民については大正時代の後半、関東大震災以後であろう。女性の水泳が話題になったのが大正8年である。それから10年も経たないうちに、庶民も東京から脱出して海や山へ出かけるようになった。 ラジオの普及は、音楽番組の人気で隆盛である。とはいっても邦楽、いわゆる流行歌ではない。その演目は、新しい曲を求めるのではなく、郷愁を誘うような曲と感じがする。・五月「不景気挽回策とし…

大正十五年前期 娯楽の多様化が進む

…2 大正十五年前期 娯楽の多様化が進む 大正十五年、この年は、東京が大都市としてスタートした年と見ることができそうだ。世情は徐々に新しい風が吹きはじめ、女性の「断髪」やハンドバックの流行など、女性の進出が目につくようになってきた。またレジャー関連では、ラジオが下層階級にも普及し、市民に欠くことのできない娯楽になった。ラジオが大勢の人々に聞かれるようになっても、だからといって映画や観劇の観客が減少することはなかった。この年のレジャーは、前年にも増して海水浴へ出かける市民が増加し…

大正十四年後期 商業娯楽が浸透し始める

…大正十四年後期 商業娯楽が浸透し始める 時代の変化を感じさせる大正14年の後期、東京の人口は増加し、都市構造についても変化していた。市内は、山手線の環状運転が始まり、新宿・渋谷・池袋などから郊外から通勤する人々が増加した。市民の遊び場も、市内から溢れるように郊外へと足を伸ばす人たちが増えて行った。それを見込んで、新たな谷津海浜遊園や多摩川園が開園した。 江戸時代から続く、自然発生的な遊びに加えて、商売として娯楽を提供することが盛んになり、娯楽の商業化が進んだ。遊びの有料化、お…

大正十四年中期 引締めを感じてか盛んな娯楽

…締めを感じてか盛んな娯楽 4月に治安維持法、5月に普通選挙法と、重大な法律が公布された。普通選挙法は、成人男性の普通選挙実施による政治運動を進めることになり、それに対し、過度の政治運動を抑制するための治安維持と、この二つは「飴と鞭」とも評された。また、治安維持法は、1月の日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交樹立が、共産主義革命運動の激化の懸念を念頭にしていたとされている。 大衆は、そのどちらにも大きな関心を持っていたとは感じられない。新聞には、以下のような記事が掲載され…

大正十四年前期 新たな風は娯楽にも

…四年前期 新たな風は娯楽にも 大正十四年三月、普通選挙法案は、枢密院や貴族院での修正が加えられるなど難航したが、ようやく治安維持法とともに成立した。七月、加藤内閣は、閣議で税制などの意見が異なり総辞職。本来なら、あれほど熱望した普通選挙が可決されたのだから総選挙を行えばよいものを、議員は自分たちの権益を維持するために総選挙を回避した。そんな国会に対し、民衆からの反応というと不思議なことに選挙実施の要望は目につかない、感じるのは国政への関心のなさである。「世は不景気ながら天下は…

大正十三年後期 復興を感じさせるのは娯楽

…復興を感じさせるのは娯楽 震災から一年、市民の遊びを見ていると、それなりに復興していたものと感じられる。その娯楽・行楽活動から、東京には様々な人々が生活をしていて、それぞれの階級ごとに楽しんでいたことが見えてくる。・九月「お中日、被服廠跡は雨のようなお賽銭、上野の各展覧会や動物園も大入り」二十四日付東朝 一日には、東京府・市は、震災一周年を記念する様々な行事を企画した。府市連合の尊難死者弔祭式をはじめ、震災展覧会、丸ノ内と上野で記念講演、上野・芝公園などで活動写真会、防災宣伝…

大正十三年中期 徐々に復興 市内の娯楽も

… 徐々に復興 市内の娯楽も 九月で関東大震災から一年となる。関東大震災からの復興は徐々に進みつつあり、娯楽も少しずつ賑わいを取り戻しつつあった。人心の混乱を発生させないように、メーデーを包囲するように制御し騒ぎにならないよう抑えた。その一方で、落ち込んだ人々の気持ちを盛り上げるため、御成婚奉祝会を東京市は大々的に催した。市民30万人もを動員するイベントとし、奉祝気分を盛りあげ、人々の落ち込んでいる気持ちに潤いを挿した。 このような手法によって、市民を誘導することができることを…

大正十三年前期 復興に追われ市内の娯楽は停滞

… 復興に追われ市内の娯楽は停滞 この年、一月に成立した清浦奎吾を首班とする貴族院内閣は衆議院を解散、五月の総選挙では護憲三派が大勝し組閣にこぎ着けた。こうして、形の上では「大正デモクラシー」運動が実を結ぶことにはなったとも言える。しかし、だからといって民衆レベルの民主主義的な要求が飛躍的に高まったと見ることはできない。まだ、女性はもちろん、国民全てに選挙権(全人口の6%以下)が与えられていない。震災の影響もあってか、選挙期間中のメーデーも盛り上がりに欠けていた。 市民の多くは…

大正十二年後期 すぐに取り戻す庶民の娯楽

…すぐに取り戻す庶民の娯楽 関東大震災は、東京庶民に壊滅的な衝撃を与えた。市内の半数以上の人が被災し、大混乱に陥った。その混乱は、一月も経たないうちに収束に向かった。元の生活へと早く戻れたのは、庶民の自助努力である。地域の人間関係の結びつき、相互扶助など、自分たちで修復する力があったからである。現代の東京でも、同じような修復が期待できるであろうか。社会が複雑化し、人間関係が希薄化し、個人の力が埋没する組織など極めて難しいであろう。様々なことが、国や都に依存しなければならないよう…

大正十一年中期 不安を示す庶民娯楽

…中期 不安を示す庶民娯楽 世界的な軍縮を受け、陸軍・海軍とも軍縮計画を進めることになった。前年からのワシントン会議で海軍軍備制限条約が締結され、それに対処するものである。世界に不況ながらも平和な陽ざしがさしこむようになると期待されだが、イタリアではファシスト党がムッソリーニ内閣を組織し、独裁政権によるファシスト化への動きがはじまった。 国内では、緊縮財政策をかかげ、健康保険法、未成年者禁酒法等が制定された。高橋首相はさらなる改革を目指し内閣改造を目論んだが、総辞職に追い込まれ…

大正十一年前期 不景気で不安な庶民娯楽

… 不景気で不安な庶民娯楽 大正十一年、高橋是清首相は緊縮財政策を目指したが、内閣を統率できず総辞職。他方、野党が提出した普通選挙法案は、三度も否決された。政局が混迷する中、政党外の軍人が首班となり、軍部・官僚・貴族等による内閣が成立した。 不景気で節約ムードが浸透するも、三月からの平和博覧会が開催されるや、一千百万人を超える入場者を記録した。ビッグイベントがあると市民のレジャー熱は、誘発される傾向があり、映画や演劇なども前年よりも多くなっている。また、夏は暑かったらしく海や山…

大正十年後期 不景気の中の庶民娯楽

…期 不景気の中の庶民娯楽 大正十年の後期は、次々にその後の日本の進路に影響する事件や事象が続いた。不景気による労働争議は、政府の弾圧を激しくさせる。戦前最大のストライキ、川崎・三菱神戸造船所争議は、軍隊が出動し、警官隊が争議団に対抗するなど激化した。その他にも、足尾銅山争議など、争議の規模は大きくなり、各地で多発した。そして、米が豊作であったにもかかわらず、小作争議が多発して不安な世相は人々の深層に浸透した。事件も、九月に安田財閥の当主安田善次郎が刺殺され、十一月には原首相が…

大正十年中期 不景気の中の庶民娯楽

…期 不景気の中の庶民娯楽 ちょうど百年前、1921年の読売新聞五月二日の朝刊5面の紙面を見て、現代の新聞の論調と比べてみたい。その頃の新聞は、東京で繰り広げられている活動や事象を、記者が見たままを伝えることができていたみたい。この年辺りまでが、新聞に自由な論調で記事を書くことのできたのでは、4年後には治安維持法が制定されている。 五月一日のメーデーに関する記事を、読売新聞の見出しから紹介する。『昨日の労働祭』。『場内擾乱』。『葉桜の上野に解放の獅子吼』。『斯しくて進む 革新の…

大正九年後期、庶民の遊びは盛り上がる

…おり、彼らが指示する娯楽は以後さらに活気を増していく。 新聞は中流以上の人々に視点を合わせ、歳末の話題はデパートの動向に注目している。以前のような歳の市の賑わいは報道されなくなってしまった。ただ、浅草観音歳の市の出店情況は、しめ飾り26・宮師34・羽子板47・桶屋51軒を始めとして1千5百軒との記事がある。縁起ものの店は数年前と変わらないもののその他の露店が増えているようだ。十八日付の新聞(東朝)には「活動写真と飲食店が不景気の槍玉に 歳の市の商人だけ売れそうですと大喜び」と…

大正九年中期、メーデーは労働祭

…それに最も有効なのが娯楽である。その娯楽も、労働祭のような政府の意向に従わなければ禁止され、庶民が参加しないようにされてしまう。 ・五月「五月場所初日 大入場は寂しい 選挙疲れか不景気か」十五日付讀賣 日本初のメーデーは、三日付の新聞(万朝)に、「最初の労働祭演説会 十余団体員上野で火のような気焰」という具合に書かれている。労働者の祭りは、余興を楽しむ運動会ではなくなっていた。同じ紙面に、「新畫の値段は半分に下落した」とある。不景気は美術界に最も鮮明に反映された。映画や芝居は…

「熱狂的好景気」の大正八年前期の庶民娯楽

…の大正八年前期の庶民娯楽 原内閣が有効な経済施策を打たない中、「熱狂的好景気」といわれる実体の伴わない、いわゆるバブル景気が始まった。東京市内の物価は上がり、例えば、かけそばやもりうどんが日を追って7銭・8銭・9銭・10銭と値上がりした。そのため、下層階級の生活は苦しくなり、労働運動や労働争議が増えていった。 市民レジャーは、好景気の余韻を受けて盛況である。特に演劇は、史上最高ともいえる観客数になった。まだ世相に暗さがないためか、「東京節(パイノパイ)」「デモクラシー節」「浜…

不景気が忍び寄る大正七年中期の庶民

…正七年中期の東京は、娯楽に浸る庶民が大勢いた。地方では徐々に不景気風が吹き始めていた。東京では、成金が金にまかせて謳歌しており、庶民もつられていたようだ。 しかし、米騒動の情報が東京にも流れると、事態は一転した。・五月「電気博覧会期延期」九日付讀賣 森鴎外が家族連れで二十日に見物した電気博覧会は、会期を十日間延長した。この博覧会は名前から予想つくように、いたって地味な展示であったが、それでも入場者数は、十五日で96万人に達した。二十一日は、博覧会デーとして入場料を割引、余興館…

大正六年後半も浮かれる庶民

…興行規則実施。検閲が娯楽にも浸透し、フイルムのチェックだけでなく、何と男性と女性を分けて別席にするとか。現代ではこのようなナンセンスな対応は、考えられない事である。昭和に入ってさらに強化するのであるが、その布石と思わせる。 十月一日の東京湾台風。東京の下町、月島、築地、深川などが浸水し、死傷者など千五百人余、甚大な被害を被った。しかし、その復興がどのように進められたか詳細はわからない。たぶん、蔑ろにされたようで、庶民をイベントや娯楽に熱中させることで気を紛らわさせていたような…

イベントに盛り上がる大正五年前半

…る様子を「治外法権の娯楽場」と。さらに十七日付は、飛鳥山に前日10万人の人出があって、酔い倒れが71人、迷子が53人もでたことも報告している。十六日の花見が近年最高の人出を記録し、上野の人出が30万人、上野駅の乗降客は11万人以上に達したことを掲載。なお、花見の記事ではないが、十二日の新聞(報知)に、市内に約5万本のサクラの木が存在すること、府下全体では約7万本に達すると十二日付の新聞(報知)にある。・五月「一高 又勝つ」十四日付讀賣、 「五六連勝中の横綱太刀山が敗れ満場数万…

天皇即位に盛り上がる大正四年後半

…ず 22読 みやこ館「ヂューブ大探偵」上映 28朝 目黒競馬初日、景品券で大賑わい 28読 遊楽館「赤垣源蔵」他の連鎖、大好評 12月10朝 上野公園で東京市民の大礼祝賀頗る面白く勇壮 12読 首相官邸で3千人の華やかな大夜会 13中 両国国技館で羅馬式演武のトーナメント 13中 餅搗き芝居はズラリと見事に失敗 21森 鴎外、銀座に物買いに往く 25読 帝国劇場で25日からクリスマス娯楽会 25読 両国国技館で忘年大演芸会、35銭均一 29読 納の不動、境内付近は非常な賑わい

大正二年後半、景気は下降で娯楽も停滞

…年後半、景気は下降で娯楽も停滞・七月「有栖川宮斂葬日」「謹んで休業 淋しい浅草」十八日付東朝 七月、藪入りの日は暑い一日。一本4銭の扇を手にした小僧さんたちが大勢、上野や浅草へ繰り出した。上野三橋のお閻魔様の片側一帯に店が立ち並び、小僧さんたちは閻魔堂から公園内の明治記念博覧会のジオラマや動物園へと流れて行った。動物園の入場者は昼までに5千人は固いとある。公園前から出る浅草行きの市電は雷門で空になり、小僧たちは四発1銭の射的場をのぞき、一杯1銭の五色の水を手に、木馬館や十二階…

大正二年は不景気、でも娯楽はそれなりに

…大正二年は不景気でも娯楽はそれなりに 大正二年の事件としては、二月に護憲派の民衆が議会を取り巻き、桂首相は内閣を総辞職する。この総辞職は「大正の政変」とされ、藩閥政治がおわり、あらたな政治の始まりを期待させた。しかし、政局は不安定で、政費削減が進められたものの、景気は改善しなかった。 東京では、二月に神田で大火があり3千8百戸が焼失。不況が続くことから、明治天皇崩御の暗さを引きずったままで、市民のレジャーも停滞していた。この年流行したのは、ローラースケート、女優まげ(前髪を七…

新しい時代に入り娯楽は自粛

…7 新しい時代に入り娯楽は自粛 1912年は、日露戦争が終わって六年目だが、戦争による国民の疲弊はまだ残っていた。それでも東京は、首都として日進月歩の勢いで変化していた。市民は日々の生活に追われながらも、変わり行く街の中で楽しみを求めていた。 この年の正月はまだ明治時代、前年からの市電のストライキに翻弄されながらも、市民のレジャーは、初詣をはじめ活発なスタートを切った。藪入り、節分と行楽活動は月を追って盛んになっていた。明治四十五年の大きな事件としては、三月に深川洲崎の大火(…

明治の遊び・娯楽を考える

… 146明治の遊び・娯楽を考える 欧米の文化を積極的に取り入れ、文明開化を押し進めた明治時代、東京市民は、はたして江戸の庶民より幸福だっただろうか。遊び・娯楽から見ると、必ずしも文明開化の恩恵を受けたとは言いがたい。特に下層階級の人々は、江戸時代よりも楽しみを奪われてしまったようだ。 明治時代は、五箇条の御誓文をもとに文明国をめざして近代国家を形成した時代とされている。国会や憲法、鉄道や道路など、新しく出現したものによって、人々の暮らしは便利に、豊かになったと思いがちである。…

明治後期の庶民レジャー

…と思われる。 行楽や娯楽などの形態にも、新たな変化が現れた。まず、中流者には、インテリ層と呼ばれる人々が生まれ、文芸だけでなくレジャーにも積極的に活動しはじめた。特に学生は、時間があり先端情報が得られることから、行楽や娯楽なども率先して行い、オピニオンリーダー的な役割を担った。当時のレジャーは、欧米のものであれば何でもいいというわけではなかった。また、江戸時代の郷愁に浸る、というのとも違う新たな傾向が見られるようになった。大衆レジャーも、工業労働者の増加で、休息や気晴らしを求…

盛んに遊ぶ四十三年

…ペラ館)と遊園地風な娯楽場ルナパークができた。ルナパークは、米国コニーアイランドにある遊園地ルナパークを参考にして造られた遊園地で、自動機械館(当時珍しかった電機諸機械等)、海底旅行館、天文館、木馬館(メリーゴーランド)、汽車活動館などのほか、中央庭園の築山から滝を落とした約16.5mの大瀑布や温室、それに海外諸外国の物産販売店や東京及び地方名産販売店が一体となっていた。 ルナパークのなかで目を引くのは、汽車活動館と木馬館であろう。汽車活動館は、客車の形をした部屋、その前方に…