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戦争景気に踊らされる大正五年後半

…館納涼園大入りなれど菊花壇準備で閉園 6万 戌の水天宮、安産帯は直ちに、守り札は午前十一時頃1万余なくなる 7森 鴎外、子供達と小石川植物園に往く 9読 花香苑で盆踊りの稽古、見に来た客も仮装して踊る 12万 コレラ流行の兆しで海水浴場へ遠慮の勧告 12万 帝国劇場「いがみの源太」他連日満員御礼 16読 演技座、連日大入りのゲンソー液デー 27森 鴎外、類を伴い浅草に往く 31読 悪疫流行のため、浅草大増が満員の盛況 31読 天長節御祝祭 9月2読 目黒花壇の秋草見ごろ、客絶…

天皇即位に盛り上がる大正四年後半

…が満員。浅草観音では菊供養が催され、これは十五年来続いているとのこと。中でも一番の話題は、目黒競馬場で行われた自動車大競走で、我が国初のレース。これに十一時開催の二時間も前から見物客が詰めかけ「無慮五千」、婦人の入場者も目立ち、柵外の野原からも見物しているという盛況。レースは、爆音と砂塵の中を疾走する車に観衆が狂喜し、場内が湧き返ったとある。・十一月「花の如き芸妓行列 黒山のような沿道の群衆」十七日付万朝 十日、天皇が京都御所紫宸殿で即位、御大典の祝事がはじまった。当日は、宮…

松井須磨子で盛り上がる大正三年後半

…入り、恒例の国技館の菊人形、池上等の御会式・・・と続く。国技館の菊人形は、おりからの時局をテーマにした「膠州湾の突撃」、歴史物の「頼光の大江山入り」、「日蓮上人佐渡の御難場」など。例年より大規模、大仕掛けで18場面、人形総数180余体が館内いっぱいに飾られていた。その他、幾百種の菊花陳列、一本で千輪咲きなどの名花があった。 文展や浅草界隈も大勢の人で賑わったが、ただ、靖国神社については諒闇中のため、招魂祭は淋しい佇まいだったとある。鍛冶橋の開橋式は、獅子頭の渡橋が話題を呼んだ…

大正二年後半、景気は下降で娯楽も停滞

…・十月「市内と近郊の菊 何も見事の出来栄」二十九日付東朝 十月はキクの季節。「早い菊晩い菊」と国技館恒例の菊人形を紹介。桃太郎・二見浦・雪月花の五段返しの豪華な人形に活動写真でおなじみの「新馬鹿大将」も加わって、入場料20銭は高くないとの評判。菊見のイベントは、向島百花園、日比谷公園のほか、玉川遊園地などでも催され、玉川電車は日曜日の乗客に入場券を配るサービスをしている。 また、浅草、常盤座で演じられた我廼家五九郎一座の喜劇は初日から満員の客止め。日本最初の活動写真館である電…

新しい時代に入り娯楽は自粛

…国技館・百花園などの菊人形等が、例年と同じように催された。池上の御会式は雑踏のため、万灯が燃え上がり川に落るというような椿事があったものの、迷子17件、スリ2人、喧嘩3件と事件は意外に少なかった。世情全般としては、人気の「ジゴマ」が、警視庁の厳命で終了させられたように、市民は喪に服すべし、という雰囲気は依然として続いていた。こうした中で、娯楽色のつよいレジャーが、新聞に掲載しにくかったのに対し、「文展」(文部省美術展覧会)はたびたび批評が紹介されるなど注目を集めた。そのためか…

明治時代の庶民の楽しみの変遷

…らに、朝顔市・草市・菊人形などは、江戸時代の規模や内容まで上回る明治のレジャーとなった。 菊人形は、見世物の新しい試みを追っているように見えるが、本質的には活人形や器械からくり、歌舞伎など江戸時代からの技術や趣向を受けついだものだった。そのため、人々は、菊人形を見ることで懐かしさや安心感を得た。また、キクの花で作られた菊人形は、芝居や活人形などと比べるとリアリティーが低く、そのため体制風刺や残酷なシーンが多少あっても、警察などから大目に見てもらえた。菊人形が市民に受け入れられ…

明治後期の庶民レジャー

…、国技館を舞台にした菊人形の見世物観客も著しく増加した。 菊人形は、明治中期に団子坂周辺に44軒もの小屋が並んだという市民レジャーだった。その後も大名行列の菊人形(二十九年)、回り舞台迫り出し菊人形(三十二年)、日露戦争菊人形(三十七年)など趣向を凝らして観客を増やしていった。さらに明治終期には、国技館や浅草清島町、浅草公園常盤座裏などを舞台にした大がかりな菊人形があらわれた。旧来の見世物は、ほとんど衰退したようにみえたが、その中で、菊人形は一人気を吐き、一大ブームをまき起こ…

四十四年頃から徐々に変わる遊び

…月に始まった国技館の菊人形は、非常にできが良く連日2万人もの見物があり、ピーク時には3万5千人の入場があったという。ベッタラ市なども盛況。十一月の初酉では、迷子が21人も出る混雑でスリ1件、21人の賽銭泥棒がつかまり、遺失物2、拾得物4。二の酉は新嘗祭と重なり盛り場が賑わうなど、この年の大衆レジャーはどれも盛んに行われていた。 八月、新渡戸稲造は「野球は巾着切の遊戯」と言って物議を起こした。当時の野球は、もっぱら学生が中心で、一般の人はあまり行ってなかった。野球人口は、一万人…

盛んに遊ぶ四十三年

…団子坂周辺の飲食店を菊人形開園を待って、暴利と淫売婦の取締り10月M堀之内の妙法寺祖師のお会式賑わう11月Y両国国技館で大菊花、電気応用の菊人形が興行される11月M珍しき好天で初酉、賑わい景気立つ11月M靖国神社祭典、押し返されぬばかりの人出11月 水天宮縁日で戌年戌月戌日の御利益に群集し、重傷者9名11月M専売局の職工、1750余名、穴守の大運動場にて慰安会を催す11月 白瀬中尉壮行会が日比谷公園で挙行12月M納の金刀比羅、午後より人出、夜に入って一層の賑わい/都12月Y納…

大恐慌四十二年の娯楽

…高まった。・国技館の菊人形に市民が殺到 国技館は、今でいう東京ドーム球場のようなものであった。相撲興行が終わった後は、劇場では収容しきれないくらいの人数の人々を収容できるイベントが可能であった。八月には、英国人ヒッポドロムが国技館で曲馬を興行している。十月の国技館は、名古屋黄花園(コウカエン)が40日間にわたって、電気応用仕掛けの菊人形(経費4万円)を興行した。開園は朝8時から夜の11時までと長く、入場料は大人20銭、小人10銭と安くはなかった。当時菊人形は、名古屋からわざわ…

不況でも四十一年の娯楽は盛況

…松之助の活動写真「本能寺合戦」が神田錦輝館で公開10月M池上の御会式、近年稀なる人出と賑わい10月M湯島天神大祭、神輿・山車・地囃子10月M米艦隊歓迎、日比谷公園で園遊会等、各地で多数の行事11月M初酉、浅草田圃・四谷須賀神社・深川八幡、賑わうが売行き少なし11月 井上角五郎が小石川後楽園で、3500余人を招待する大園遊会を開催11月 団子坂、浅草公園花屋敷等で菊人形を催す 12月M競馬、目黒、板橋、川崎いずれも振わず12月Y浅草観音の歳の市、夕方に強風止んで羽子板店が大繁盛

戦勝に酔えない三十八年の庶民娯楽

…山・品川・高輪・御殿山・上野見晴らし・神田明神など中々の賑わい9月M各神社、大祭を延期10月Y団子坂の菊人形、日露戦争ものなどで賑わう、大人5銭、小人3銭10月Y上野公園で征露凱旋海軍大歓迎会が開催される11月M酉の市、浅草、四谷、品川などで催され繁盛する11月M靖国神社大祭、午前中から立錐の余地なき賑わい11月M凱旋歓迎会が始まる、日比谷公園に芸妓の仮装ホーカイ節や太神楽の曲芸、模擬店等催す12月Y歳の市、市内各地で催され賑わう12月M上野で征露凱旋陸軍大歓迎会が開催される

娯楽も戦時色の三十七年

…。十月からの団子坂の菊人形も、日露戦争ものをテーマとして作られた。パノラマは、もともと戦争などスケールの大きい題材が適しており、浅草パノラマ館では南山激戦の大パノラマを興行した。暮れも近づくと、神田では「旅順要塞占領スゴロク」が売り出された。 なお、浅草でも日露戦争ものが幅をきかせていたが、その一方で十二月には浅草公園ならではの興行も行われている。公園六区では、大盛館が江川の玉乗り、清遊館が浪花踊り、供盛館は青木の玉乗りと岩てこの太神楽(曲芸を挟む道化芝居)、娘手踊り美園一座…

三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争

…年、二月に五代目尾上菊五郎が死去、後を追うように九月には九代目市川団十郎が世を去った。それでなくても劇場への観客の足が遠くなっている時期である。歌舞伎の二本柱を失ったことは、演劇界に大きな衝撃を与えた。劇場観客数は、前年より51万人減少して285万人となった。演劇、特に歌舞伎を大衆が気軽に見に行くようになったのは、明治になって、それも二十年代に入ってからである。二十二年に歌舞伎座が開場したのを皮切りに、二十五年に中小の劇場がいくつも開場し、翌年に真砂座、明治座と続き、観客席が…

明治三十五年に忍び寄る不景気の娯楽

…月、浅草花屋敷では、菊人形が開園。足柄山奥山姥、丸橋忠弥捕り物、八島壇の浦、龍宮城内宴会などの菊細工活人形が陳列された。園内では、大ゾウの曲芸にオラウータン、トラ、クマなどの動物、盆栽、日本一の大声発音器があった。浅草公園は、当時の大衆がどんなものに関心を示したかを知るうえで最もふさわしい場所と言える。特に花屋敷は、子供から年寄りまで幅広い層が楽しめるようにつくられており、当時の庶民が求めていた娯楽の縮図がそこにあった。また、浅草田圃の初酉は、非常な盛況。浅草署が取り扱った事…

20世紀に入るも変わらぬ庶民の娯楽

…内の花屋敷で六十種の菊人形を開催する10月Mダブリュ・シュボーン一座が春木座で自転車曲乗りを昼夜二回興行する、8銭10月Mベッタラ市、市の繁盛推し返されぬ人、70本詰め一樽2.5~3.5円10月G春木座で教育活動写真会10月Y改正自転車取締規則改正を発布11月M靖国神社大祭、隣接する遊就館にも1万人を超える入場者11月 不忍池畔で十二時間長距離競走を行う、賞金一位百円、二位五十円12月 花房清十郎が真砂座で漫才芝居を行う12月Y浅草公園で骨なし娘の見世物、春木座では土佐の犬相…

三十三年頃から徐々に盛り上がる娯楽

…自転車曲乗りを興行。菊五郎はかなり気に入ったと見えて再三見物に出かけ、彼に付いて自転車乗りの練習をしたという。七月にはフランス人デルフ一座が奇術を披露。前述の新富座や歌舞伎座などの劇場で、歌舞伎や演劇とは異なる演し物が行われることが一般化していた。明治二十八年、川上音二郎が歌舞伎座で「威海衛陥落」を上演した時に、団十郎が「いやしむべき書生芝居を演じさせた舞台は、全部削りなおさなければ今後出演しない」と断言したことなど一昔も前の話のようである。三月時の料金は、桟敷6円30銭、高…

多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締

…で「悪源太」上演する/日本演劇史年表10月M池上本門寺の会式、降雨で前年の半分の景気10月M団子坂の菊人形、回り舞台迫り出し強盗返し舞台一面釣り上げ山別れ等の大仕掛け11月J帝国ホテルで天長節に各国公使を招き大夜会を催す/日本11月U上野動物園にカンガルー、ハリモグラ、ディンゴが来園/上野動物園百年史11月Y三の酉、参詣人繰り出し、各地とも大賑わい12月Y歳の市、神田明神・薬研堀・両国など人出盛ん12月 浅草歳の市地代、一等3円・二等80銭・三等50銭・四等30銭・五等20銭

不景気明治三十一年の娯楽様相

…向島須崎町の萩の園の菊、朝より杖曳く雅客多しと10月M日本橋福傳神社の恵比寿祭、大中にて社内の祭礼のみ10月M麻布仙台坂、仙華園の菊、八間の花壇培養11月Y団子坂の菊人形16~17軒でて盛況11月Uフタコブラクダなどの戦利動物を展示するため、上野動物園が拡張される/上野動物園百年史11月M浅草田圃の二の酉、人出が多いなか急な雨で数万の群集が小松橋に集中しケガ人数十人12月M愛宕の市、認可商人1918で前年より98人増加12月M浅草観音市、羽子板三尺物8~10円、1尺八寸も…

明治三十年に始まる映画という娯楽

…に人出があった。秋の菊人形、特に団子坂は混雑し、上野谷中口・根津口とも人、人、・・人で歩行困難。十一月の浅草の酉の市には、熊手売りが30内外、芋が57軒などが並び、早朝から大勢の老若男女がつめかけた。二の酉では、ただでさえ人出が多かったところに、急な雨で帰りを急ぐ群衆が小松橋に集中、数十人ものケガ人がでるという惨事があった。新聞は、その状況を説明するつもりか、散乱して残された下駄のことまで詳しく書いている。 この年のレジャー活動は、前年までの上昇傾向に水を差すようなことがしば…

明治の遊びが始まる中期

…、活人形、軽業、造り菊の順である。興行内容と日数を見る限り、明治中期になっても手品、活人形など、市民の嗜好は江戸時代と大きな違いがないように思える。 また、見世物は、機械人形・蒸気船・電信器械・理化学器械などが登場したことからもわかるように、時代を先取りする場でもあった。当時の見世物は、「観物」と呼ばれ、上流階級からは卑しいものと思われていたが、庶民の意識は博覧会となんら変わるものではなかった。そのためか、明治二十三年に開催された上野公園で第三回内国勧業博覧会は、四カ月間に入…

二十九年の上流階層と庶民の遊び

…多し1月 明治座は、菊五郎で連日大入り2月Y初午祭と紀元節、強風で人出閑散2月Y初卯、小雪で亀戸でも参詣人ちらほら3月 川上一座の壮士役者が浅草座で時代物を興行する3月Y大森八景園の梅園、日曜に賑わう/読売3月Y浅草公園内、日清戦争パノラマ開業3月J前年の青梅線日向和田駅の開通により、吉野梅林に観梅客が多数訪れる/日本4月M向島、土手の歩行者10万人以上との記事4月Y浅草活人形が様変わり、七情の動作や意匠より仕掛け物が人気4月M義太夫は各席とも大入りであるが、一枚看板の綾之助…

戦争に便乗した二十八年の娯楽

…なお、同頁に団子坂の菊細工(菊人形)の開催日、出し物の紹介。植木屋「新籾」は、旅順口龍山砲台占領の場、土城子浅川騎兵大尉奮勇の場、それに弁天小僧菊五郎、五条大橋牛若弁慶立回り、二人道成寺などを菊人形に仕立てたもの。「種半」は川上音二郎一座が公演した威海衛占領を、「植安」が台湾戦争、「植惣」が台湾征討、「植梅」が大舞台仙台萩、「植重」が国性爺紅流し、「燻風園」が日清戦争大箱庭数個、と趣向を凝らしている。 ─────────────────────────────────────…

二十七年には娯楽にも戦時気分が

…頭海上月などを模した菊細工を開園。団子坂の菊人形も、薫風園では一種変わった日清戦争陶器人形大箱庭がつくられ、さらに、九連城占領の実況を再現する菊人形かつくられた。十一月には、神田明神の射的場で、李鴻章や北京城などの的が設けられ、矢が命中すれば景品がもらえるという趣向が注目された。戦争が始まったころは、レジャーに戦時色を盛り込もうとしていたが、そのうちレジャーも戦争に関連したレジャーを行うようになっていった。 芝居の内容も時流に乗り、九月に春木座で「日本大勝利」、新声館の人形芝…

二十六年は娯楽のピークか

…った。また、団子坂で菊人形の季節までのつなぎに桜人形などを催すとある。サクラやツツジ、オミナエシやナデシコなどの花を使って、東海道五十三次に見立てた見世物を出した。春の行楽シーズンには、大勢の人が繰りだすと予測したのだろう。向島の花見時には、言問い団子と桜餅の商いに関する記事があり、団子が一日3千食、餅が千食という見積もりをしている。運動会も活版所の職工が千余人も参加するなど、あちこちで開催された。このように東京市内及び周辺は、明治二十年代で最高の人出を記録したに違いない。 …

二十五年頃から庶民演劇に変化が

…記」は空前の大入り、菊五郎が使った「・・でガンス」という言葉が大流行する。芝居に行楽にと人々の行動は活発で、新聞には、梅見の屋形船の予約が多いという記事も、また初午の水天宮や上野公園の賑わい、佃沖や御台場の潮干狩り、サクラ・ボタン・フジ・ハナショウブ・アサガオ・ハスなどの花の便りが続いた。四月の学生の運動会は一日に10校も開催され、五月の藤見では「くず餅」が大人気。六月には、本所の東花園が東海道五十三次の盆景を出した。入谷の朝顔人形は、この年も大がかりな舞台が仕立てられた。盆…

分からぬ憲法に浮かれる庶民年

…形・軽業・諸畜・造り菊・盆栽・器械人形の順であった。たぶん、明治年間で最も多くの見世物観客数があったのではなかろうか。十一月、残酷な見世物が禁止になった。 ─────────────────────────────────────────────╴ 明治二十二年(1889年)主なレジャー関連の事象 ─────────────────────────────────────────────╴ 1月H牛込神楽町毘沙門天初寅、開運小判の守札を出し雑踏を極め植木商人も非常に出たり/郵…

東京庶民の明治二十一年の楽しみ

…の便り。七月の本郷・菊坂下の釣り堀では、数万匹のホタルが放たれた。猛暑であったことから、納涼場はどこも大繁盛で、花火もたびたび催された。 六月の氷川神社祭礼は、神輿が町内を練り歩き、新しい山車を含めて30余両が踊屋台などとともに出て、近年にない賑わいとなった。浅草公園不動堂大行院で京都広隆寺の聖徳太子が開帳。賑わいは開帳より聖徳太子の出迎えの方が大きかった。旗や山車などの他、石工職人約千名が大旗を押し立て、吹き流しや馬鹿囃子などを伴って、本願寺から銀座通りをぬけ浅草公園までの…

運動会が広がる明治二十年

…わった。秋は、各地の菊人形に加えて、品川・海晏寺の紅葉も数十本植えましたこともあって見物客が多かった。このように江戸時代からの行楽活動を楽しむ人々がいる一方で、新しい行楽活動をする人たちもでてきた。 それは、新たに東京に住みはじめた人々や新しい教育を受けた人たちの活動である。これまでの遊びとは異質な組織や集団で行われ、庶民の遊びにも明治の形態が成立する。その代表格が学校を中心に形成された運動会であった。二月に、東京商業学校が飛鳥山で大運動会を開いた。三月にも、京橋の婦人洋服女…

賑わいを取り戻す明治十九年

…屋敷は例年どおり造り菊のイベントを行っている。 五月は行楽シーズン、浅草だけでなく、亀戸天神のフジ・大久保のツツジ・各花園のボタン、潮干狩りなどへ大勢の人が出かけた。なかでも、水天宮祝日の縁日には、午前十時までに守札が25万枚でたという。六月には、下谷金杉町の三島神社大祭をはじめとして、日枝神社大祭、庚申の帝釈天なども賑わった。七月の浅草公園は、納涼客を当て込んで、池中に舟を浮かべ影芝居や写絵などの趣向を凝らした。が、期待に反してそこそこの賑わいにしかならなかった。この年の夏…