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和のガーデニング 5 正確な生育生態を知ろう 十二月に入ると、草花の大半は枯れ、地上から消えてしまう。地面に何も無くなると、その上を知らずに踏みつけてしまうことがある。野草の路地植えが難しい理由の一つは、いつ芽が出るかという正確な情報が少ないことである。花の咲く時期や植栽摘期は、ある程度知られているが、生育期間全体についてはあまり関心が持たれない。何種類かの植物を植えた場合、発芽時期が異なることから、先に出た植物が繁茂し、後続の芽の成長を妨げたり、開花時に他の植物が覆ったりす…
和のガーデニング 4 日本らしい花で『おもてなし』 十一月は、十月から続くキクのシーズン。旧暦の九月九日は重陽の節句、菊の節句とも呼ばれている。昔は宮中はもとより、庶民の間でも様々な行事が行なわれていたが、現代では少々縁遠い節句になってしまったようだ。かつてはあちこちで飾られていた菊人形、都内でも三十箇所近くもあったが、今では谷中菊まつり、文京菊まつり(写真・湯島天神)、すがも中山道菊まつり、でしか見ることができなくなった。それでも、菊花を楽しむ催しは、新宿御苑をはじめ、各地…
和のガーデニング 3 ・時間の芸術(生育・開花時期の違いを活かした植栽) 日本庭園と盆栽、スケールはまったく異なるものの共通する部分は多い。さらに言えば、鑑賞に求める本質は同じではないだろうか。というのは、日本庭園も盆栽も、三次元の造形に留まらない時間の芸術だからであろ。双方とも、四季の変化はもちろん、時代を超えて存続することを前提に作られている。 なかでも注目したいのは、年間を通して観賞に堪えるという事。日本人なら当前のことと思うだろうが、四季折々に植物を楽しむということは…
…綴られている。園遊(ガーデニング)の記述中には、ツバキを含む記述がいくつもあり、当時のツバキの種類や使い方などを知る上で参考になる。 この日記では、ツバキを「椿」とは書かずに「海石榴」「つはき」と記している。『庶物類纂』や『花彙』でも、「椿」はツバキを指していない。そうしてみると、1740~80年頃は、ツバキは「海石榴」の使用が優勢だったのだろう。 また、信鴻は、安永三年までツバキに強い関心を持ち、名前を詳細に記していた。その名は、『花壇地錦抄』(赤字で示されたもの)に記され…
…月四日、鹿苑寺書院の手水鉢を自ら据え直しているからである。なおその時、承章の年齢は60才、当時で言えば高齢なので、力仕事ができるほどの頑強な体をしていたのだろう。以後もガーデニングを続けていたことは、彼の亡くなった年寛文八年(1668)、二月九日の日記に、ツバキを接いだ記述があることから確かである。 承応三年(1654)後水尾上皇は、皇女・浄法身院宮宗澄を開基として霊鑑寺を創建した。境内には、創建された頃に植栽されたものと伝えられている、上皇遺愛の「日光椿、散椿」がある。
…ちうゑ」 江戸のガーデニングとして、盆栽にふれないわけにはいかないだろう。江戸時代には、どのような盆栽が楽しまれたかと興味がそそられる。現代では、盆栽の種類を「松柏」「葉もの(雑木)」「花もの」「実もの」の4種類に分けているようだ。もっと、それだけでは盆栽の種類を覆いきれない。ミニ盆栽、苔玉盆栽、皐月盆栽、万年青、山野草、さらに寄植盆栽、盆景、石付け盆栽などもあるようで、盆栽の領域は広がっている。 江戸時代の園芸書や絵などには、盆栽らしきものがいくつも認められる。たとえば、お…
… 茶会の花 そこで、ガーデニングということで花や庭に関連することを中心に見て行こう。秀吉が花や庭に本格的な関心を持ったのは、本能寺の変(天正十年1582)以降ではなかろうか。華やかな桃山文化のパトロン兼理解者として、文化活動を積極的に推進するのは、やはり天下を取ってからだと思える。前述のように、秀吉は芸術面の素養が深く、また若いころからの城づくりの経験から、造園の分野に対しても見識の高かったことは言うまでもない。ただ、墨俣の一夜城のように、真偽のあまりはっきりしない逸話や伝承…
…02~1555年)とガーデニング 紹鴎は、珠光のすぐ後に続くように語られているが、珠光の亡くなった年に紹鴎は生まれている。直接的な師弟関係はあり得ないのに、あたかも珠光を引き継ぐ愛弟子のような記述が目につく。紹鴎の人物像(例として『武野紹鴎』矢部良明、『利休の師 武野紹鴎』武野宗延など)は、珠光に比べれば多少わかっているが、それでも江戸期に書かれたものによってかなり歪められている。紹鴎は、はじめ連歌をめざすが途中、茶の湯に転向し、「冷・凍・寂・枯」を思想的背景とする「侘数寄」…
…や華道と作庭(日本のガーデニング)とは深い関係がある。お茶や生け花は、作庭よりも後に生まれてはいるが、その後、庭の発展に様々な影響を及ぼしている。特に茶の湯については、路地が茶庭という、日本ならではの庭園様式となっている。 そこで、わび茶の成立から茶庭の誕生に関与した茶人について少し紹介してみたい。その始まりは室町時代の茶人である珠光、紹鴎、利休、織部、遠州という人物の流れに沿って進めることにするが、師弟関係や思想的な継続について色々な見解や異論があることも付け加えておきたい…
ガーデニングを楽しむ 3 園芸書と作庭書 金生樹譜より 江戸時代には数多くの園芸書が書かれている。園芸書を書いた人は、実際に植物を栽培し、繁殖させ、その方法を研究した専門家である。なかでも『錦繍枕』『花壇地錦抄』などを記した伊藤伊兵衛は、園芸書の作成に特に熱心であった。園芸書は、大勢の人に花の栽培に興味を持ってもらおうという気持ちから書かれたものが大半で、たとえば二万石の殿様であった松平頼寛が綴った『菊経』を見るとそれが良くわかる。 作庭書についても、江戸時代に数多く書かれた…
ガーデニングを楽しむ 2 江戸時代に学ぶガーデニング 江戸名所図会より 江戸時代の園芸は、上は将軍から下は長屋住まいの庶民にいたるまで幅広い層によって楽しまれていた。日本人の植物好きという特徴は、何も江戸時代に限ったことではない。記録にはっきりとは残っていないが、万葉以前からと考えてもよいだろう。なぜ、園芸好きになったかというと、身のまわりに色々な植物があり、四季折々に多彩な変化を見せてくれたために、自然に人々の向けられたのだ。また他の芸事には道具が必要であり、歌を詠むにも教…
ガーデニングを楽しむ 1 世界に誇る江戸時代の園芸書 江戸の園芸文化は、日本の隅々まで出かけ珍しい花を手に入れたり、時間と労力を注ぎ込んで新しい品種を生み出したりする、大勢の好事家たちの手によって支えられていた。他方、園芸植物に関する情報を世中に提供しかつ、江戸時代の園芸文化を書き記して後世に伝える役割を果たした園芸書の存在も忘れてはならない。実際、この時代に出された園芸書は二百数十にも及び、マニアはもちろん、年端もいかぬ小僧たちにまで読まれていた。 寛永から貞享年間(17世…
馬琴のガーデニング 2 馬琴の花壇 このように馬琴の庭を見ていくと、果樹園や家庭菜園があったりして現代のガーデニングと似たようなものであったことがわかる。当時、自分の庭で果樹や野菜を作るのは、馬琴だけでなく下級武士なら誰もがやっていたことであった。江戸近郊の農家は、野菜の苗を大量に生産し、江戸の町で売り歩いていたが、武家屋敷がそうした人々の最大の得意先であったことはあまり知られていない。また、武家屋敷に下肥をもらいにくる百姓から、下肥の代価として野菜の苗を受け取ることもあった…
馬琴のガーデニング 1 (「江戸の有名人のお庭拝見 滝沢馬琴の庭を推測する」『歴史と旅』を編集) 江戸のガーデニング事情 江戸のお庭事情を紹介する時に、まず思い浮かぶのは大名庭園であろう。現代でも公園として残っている小石川後楽園、六義園、浜離宮庭園など、その数は数百にもおよんだ。大名は、上屋敷・中屋敷・下屋敷を持っており、小大名でも下屋敷を二箇所、大大名ともなれば五箇所も所有していた。上屋敷に庭園があることは少なく、十数カ所にすぎなかったが、中屋敷・下屋敷には必ずといっていい…
…る。 ところで現代のガーデニングで、ハナショウブはよく使われているかといえば残念ながらがらそうでもない。菖蒲園や菖蒲祭りのようなものは、結構人気があって、よく人が入っているが、実際、個人の庭に植えられている花を見ると、ハナショウブよりアヤメやアイリスのほうが多いようである。確かにアヤメやアイリスは乾燥に強く、水やりを忘れたぐらいでは枯れない。また、ハナショウブのような土寄せや畦間の中耕などの手入れが不要で、放置しておいてもけっこう花が咲く、など忙しい現代人向きの要素をたくさん…
…トなのだった。江戸のガーデニングは当初から、武士、それも下級武士が底辺を支えたという事情があったが、それはあくまでも個人レベルでの内職と思われる。それがこの大久保百人町では、内職しているのを隠すどころか、隣近所が束になって、江戸市中に向けてアピールしたのだから、考えてみればかなり画期的なことではあった。幕府側ももっと早い時期ならお叱りの一言ぐらいはあったかもしれない。が、この頃になると幕府自体屋台骨が危うくなってきているわけで、下級武士がツツジなどを栽培して、生活の足しにする…
…、意外にもその大半はガーデニングの盛んな西欧地域以外から持ち込まれたものである。それは「プラントハンター」と呼ばれる人たちが、世界中を渡り歩いて植物を集めたものである。 プラントハンターは、金やダイヤモンドなどを探しに出かけた人たちと同じように、未開の地への危険な旅にも臆することなく、むしろ積極的に訪れた。このようなプラントハンターは、江戸時代の日本へも何人かが植物を求めて来た。その中で、最も注目すべきは、ケンペル、ツュンベリー、シーボルト、フォーチュンの四人であろう。なお、…
秀吉のガーデニング cibaさんの提供 信長亡きあと茶会を牛耳ったのは秀吉である。その秀吉のガーデニング好きは、つとに有名。秀吉は、花への関心も一方ならぬものがあり、珍しい花、美しい花などが数多く献上されている。現存するものとして、京都の地蔵院にある、加藤清正が朝鮮から持ち帰り、秀吉に献じたという五色八重散りツバキ(http://tabitano.main.jp/7jizoin.html)や大徳寺総見院に残る太閤遺愛と伝えられるワビスケツバキ(http://www.city.…
…・秀吉に始まる江戸のガーデニング 信長の庭づくり 戦国時代の錚々たる武将とガーデニング、この取り合せはあまり似つかわしくないと思われるかもしれない。が、実際に、信長・秀吉をはじめ武将らのガーデニングへの関心は、現代の政財界のリーダーとは比較しようもないほど高かった。 彼らは言うまでもなく、城造りに長けていたのが、庭造りは地形を読み、土地を造形するという点で、城造りと共通する。ゆえに武将たちは、城を造る際、戦いを念頭において築くと共に威厳や美しさを考慮し、城内の造園にも気を抜く…
…長屋の住民までもが、ガーデニングブームの一角を担っていたが、その橋渡しをしていたのが路地裏に売り声を響かせた振売であり、祭りや開帳など人の集まる場所には必ず出ていた縁日商(香具師)であった。こうした江戸の園芸事情について、イタリアの通商使節アルミニヨンは「日本人は花が大好きで、江戸近辺の植木屋たちは冬でも花を栽培し、大量に供給している。花屋は街中を売り歩き、貧しい人々の住む地域でも確実に買い手を見つけることができる」(『イタリア使節の幕末見聞記』大久保昭男訳)と書き残している…
ガーデニングバブル ・「菊合わせ」は真剣勝負の場 徳川三代の無類の花好きに象徴されるように、江戸時代に入ってからもしばらくは、身分の高い人々の嗜好によって花の流行が決定付けられた。寛永年間に流行した椿や牡丹はその代表といえる。 が、江戸も元禄期になると、世はまさに黄金万能の時代。自由経済の中で成功を修めた「勝ち組」の町人たちは、旺盛な財力を背に、誰に遠慮することもなく気儘で贅沢な生活を送るようになる。饅頭一個、茶漬け一杯に目を剥くような大金を投じたり、芝居見物に行くのに、大名…
…思い思いに個性豊かなガーデニングを楽しんでいた。もっとも皆が皆、○○の桜、○○の梅、と冠名がつくような木や草に夢中になれたのかといえば、むろんそんなことはない。例えば慶安四年(1651)に江戸城内の堀や石垣近くでの菜園づくりが、禁止されていることからもわかるように、意外なことに屋敷内で野菜をつくらせていた武士が大勢いたのだ。下級武士は当然のこと、格式・プライド共にも高い大名や旗本の中にも野菜作りに励んだ人は少なくなかったようだ。 ・園芸は貧乏旗本の手内職だった!? 下級武士な…
…江戸の人気戯作者で、ガーデニングの先駆者でもあった滝沢馬琴の日記によれば、不作であまり取れない年でも一升五合(2.7リットル)程度の収穫はあったと書かれている。当時、梅干しは食卓に欠かすことのできない食品であったから、これは大いに家計を助けたに違いない。( 実際、江戸中期頃、ウメの木一本分の実は銀四匁ほどで、これは当時の平均的家庭の一日の糧に相当するとされていた) そのため、ウメの改良は花だけでなく、ブンゴウメなど実の成るウメの改良も江戸時代の中ごろからさかんに行われるように…
…無料公開し大好評 「ガーデニングブーム」の延長線上で、オープンガーデンという活動形態が、いま注目を集め始めている。オープンガーデンとは、私的な庭園の公開を目的として、1927年イギリスで発足したナショナル・ガーデン・スキーム(NGS)がその発端とか。日本でもここ数年各方面から注目されるようになり、実際、新宿・世田谷などのグループをはじめ、日本各地で個人庭園の公開が行われている。 庭の形態も違えば、来訪のマナーやもてなしの手法もまったく違う日本で、オープンガーデンの試みは、所詮…