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『蛇録』

森鷗外のガーデニング 22 『蛇録』 『大正七年日記』 前年十二月に就任した、宮内省帝室博物館の総長兼圖書頭として参館・参寮するようになる。長男の於菟が再婚。十一月、奈良正倉院宝庫の開封に立会に出張、約一月滞在する。なお、その疲れで、十二月は、ほぼ一月間、病気のため在宅療養。奈良へは、以後大正十年まで毎年訪れることになる。『礼儀小言』『北条霞亭』続稿を発表する。 この年の花の記録は、以下の四つである。 三月 「二十四日。日。晴和。看梅於荒木虎太郎家。・・・」 四月 「七日。日…

大正四年~六年日記

森鷗外のガーデニング 21 『大正四年日記』 この年、五十三才。『山椒太夫』など発表、詩集『沙羅の木』を刊行。 四月になって、しばらくぶりに庭の記述が復活。 「四日(日)。晴。今年に入りてより始て園を治す。・・・」 しかし、その後の日記には、庭の植物についての記述は何もない。 ただ、鷗外が植物に接したと思われる記述は以下のようにある。 「二十五日(日)。晴。・・・妻子と小石川植物苑に往く。」 五月「九日(日)。陰。柏木幸子、妻、茉莉、杏奴、類と植物苑に往く。・・・」 七月「十…

ササユリの群生地を訪ねて

…の見せ方などの「和のガーデニング」を期待したい。そんなことを話ながらのササユリ観賞、3人とも十分に堪能することができた。そして何よりも、天候に恵まれ、暑くもなく気持ちの良い一日を過ごせたことに感謝したい。 ★情報(所在-岐阜県高山市国府町宇津江3232-1) アクセス1-JR飛騨国府駅よりタクシーで15分。 アクセス2-途中にある遊湯館へは、JR飛騨国府駅より定期バスあります。遊湯館からは希望があれば花の森まで運行とのこと。(なお、バスは停以外でも、手を挙げれば乗車可能とのこ…

『大正二年日記』

森鷗外のガーデニング 20 『大正二年日記』 この年、鷗外五十一才。『阿部一族』『佐橋甚五郎』などを発表、『ファウスト』『マクベス』などを刊行。 三月 「五日(水)。晴。稍暖・・・芍薬の芽出づ、福壽草開く。」 「十六日(日)。半陰。園を治す。芍薬、貝母の芽長ぜり。・・・」 「二十三日(日)。半陰。園を治す。・・・」 「三十日(日)。晴。・・・午後園を治す。・・・」 鷗外は、三月に入って三週連続、日曜日に庭の手入れを行っている。花畑の大改造をしているようで、これはよほどのガーデ…

『明治四十五年・大正一年日記』

森鷗外のガーデニング 19 『明治四十五年・大正一年日記』 この年、鷗外は五十歳。『かのように』『興津弥五右衛門の遺書』などの作品を発表。 明治四十五年二月 「十八日(日)。陰。寒。・・・庭の福壽艸咲く。」 この日、キンポウゲ科のフクジュソウが咲いた。鷗外は、この年あたりから再び庭への関心が高まったようで、日記に開花の記述が多くなる。 三月 「二十四日(日)。晴。微寒。竹垣を結ひなほしに植木屋が来れり。終日子供と園にあり。」 この植木屋、於菟が書いた『父親としての森鷗外』「鷗…

明治四十一~四十四年日記

森鷗外のガーデニング 18 『明治四十一~四十四年日記』 『明治四十一年日記』 この年四十六歳、弟・篤次郎が死去。『ソクラテスの死』などを翻訳。 日記は、一月一日から始まっている。開花の記述は、四月には入り、 「五日(日)・・・終日細雨、櫻花半ば開く。」と、どこで見たのかは不明だが、サクラの花の開花を記している。この年の花に関する記述は、これだけである。 『明治四十二年日記』 この年、『半日』『鷄』『ヰタ・セクスアリス』などを発表。文学博士となる。次女杏奴が誕生。 三月 「十…

『書簡に見られる花』

森鷗外のガーデニング 17 『書簡に見られる花』 明治三十五年四月以降、四十一年まで鷗外の日記はないが、妻・志げなどに宛てた書簡に、花に関する記述がある。 明治三十七年、日露戦争に従軍先から、 三月二十九日 森しげ子宛 「・・・廣嶋に来てから八日目・・・桃が咲いて居る。・・・」 七月十日 森しげ子宛 「・・・今とまつて居る家は植木ずきでいろいろな花をつくつて居る。多くは西洋花だが其の中に高さ二三尺の合歓木の鉢植があつて花が眞盛に咲いて居るのはなかなか見事だ。・・・」 九月二十…

『小倉日記』の植物

森鷗外のガーデニング 16 『小倉日記』の植物 『明治三十二年』 『明治三十一年日記』は、十二月二日で終わっている。その後の日記として明治三十二年六月十六日から始まる『小倉日記』がある。その間には約半年間の空白がある。鷗外は、花や植物どころか日記自体を記す気にならなかったのだろう。彼の心境に大きな変化があったことは確かだが、そのことについては、私の専門ではないので書くことを差し控える。 明治三十二年六月八日、鷗外は陸軍軍医監に任ぜられたが、ほどなく小倉の第二師団軍医部長を命じ…

『明治三十一年日記』2

森鷗外のガーデニング 15 『明治三十一年日記』2 ・『花暦』との比較 明治三十一年の鷗外は、三十六才。公務では、近衛師団軍医部長兼医学校校長。その年、『審美新鋭』を『めざまし草』に訳載、『智慧袋』を時事新報に連載、『美学史抄』を寄稿、『西周伝』を出版、等々と執筆。『公衆医事』(日本医学会)の編集を担当。また、楷行社編集部幹事を嘱託され、亀井家の貸費学生選考委員も勤めるなど、まさに油の乗った活躍ぶり。 鷗外の生活は、二十九年頃から多忙になってきたと思われる。そのような中でも、…

『花暦』5

森鷗外のガーデニング 13 『花暦』5 鷗外の『花暦』には、二月十五日から九月十五日までの期間に咲いた68種の植物が登場する。三百坪を超える庭に、サクラを除く、67種の花が記されているが、その他にも数多くの花が咲いたと思われる。『花暦』の花を草と木に分けると、草本が39種(名前の確定できない植物を含めると43種)、木本が24種と、圧倒的に草花の方が多い。このことから日当たりがよく、明るい庭であることがわかる。残念ながら、名前を確定できなかった花が4つある。植物名を確定するにあ…

『明治三十一年日記』1

森鷗外のガーデニング 14 『明治三十一年日記』1 鷗外の日記に植物が記されたものとして、『明治三十一年日記』がある。この日記は、一月一日から始まり、十二月二日まで書かれている。その中で、植物に関する記載は二月から十月までで、『花暦』に負けないくらい熱心に記されている。 ・二月 「二日(水)。風。大森の梅開くと聞く。」と、花の便りを待ちわびていたようで、花暦を付けるぞという意気込みが感じられる。 「四日(金)。・・・是日向嶋の梅開くと聞く、吾家御園の梅も亦数枝綻び初めたり。」…

『花暦』4

森鷗外のガーデニング 12 『花暦』4 ・四頁 六月二十三日 金絲桃 「金絲桃」は、オトギリソウ科常緑低木のビヨウヤナギ。漢名は金線海棠。葉は、生薬となる。乾燥させるかあるいは生の葉を煎じつめ、お茶の替わりに飲めば、胆石や結石症に効果があるという。 六月二十三日 松葉牡丹 「松葉牡丹」は、スベリヒユ科一年生草本のマツバボタン。日中は花が開いているが、夜になると閉じる。花の色は、書かれていないが赤色系かと思われる。 六月二十五日 テッパウ百合 「テッパウ百合」は、ユリ科のテッポ…

『花暦』3

森鷗外のガーデニング 11 『花暦』3 ・二頁 四月七日、十日 櫻 鷗外は、七日と十日にサクラの開花を記している。これは鷗外の庭でなく上野の山と向島でのこと。 観潮楼の二階から上野の山が見えたというから、サクラが咲いていた様子を楽しんだかもしれない。十日の向島とは、おそらく鷗外が以前に住んでいた向島小梅村のことであろう。 四月十八日 棣棠 「棣棠」は、バラ科落葉低木のヤマブキ(山吹)。棣棠は漢名。 四月十八日 海棠 「海棠」は、ハナカイドウ(カイドウ)であろう。海棠は漢名で、…

『花暦』2

森鷗外のガーデニング 10 『花暦』2 では、『花暦』に記された花を紹介しよう。 ・一頁 二月十五日 梅 『花暦』に登場するの最初の花は、ウメである。バラ科の落葉樹、紅梅であろう。 この年は、寒かったようで、開花が遅い。明治三十一年の日記によると、二月四日に咲いている。ウメの花は、積算気温によって咲く。暖かい年では一月に咲いたという記録もあるが、年によって差が大きい。 ウメの木は、敷地の北側や東側などに、何本かあったよう だ。その中でも、「三畳のすぐ脇にある紅梅には一時ひどく…

『花暦』1

森鷗外のガーデニング 9 『花暦』1 ・不思議な花暦 森鷗外が七ヶ月かかって書いたにもかかわらず、全集はもちろん、関連した本や雑誌など、どこにも触れられていない『花暦』がある。『花暦』は半紙四枚に記され、筆跡から見て、鷗外自身が書いたことは間違いない。ただ、書かれた年代やその他のことについては、何も記載されていない。もしかすると、その紙と一緒にもう一枚、花暦の年などを書いたメモがあったのではという気もする。それは、『花暦』が単なる気まぐれで書かれたものではないと思われるからで…

「観潮樓」の庭づくり・その2

森鷗外のガーデニング 8 「観潮樓」の庭づくり・その2 観潮樓の庭園は、築山泉水の日本庭園ではなかったが、全体としては和式の庭であった。大きく分けて、南庭、北庭、東庭の三つであるが、それに小さな中庭もあった。 ①主庭となる南側の庭は、横の東西は20m程度、奥行きは7~15m程度の鉤状の形をしていた。娘の茉莉が小堀遠州式の庭と思っていたらしく、飛び石が中心となる露地のようであった。そのような庭を、 「庭木は楓が一番多く、表玄関の屋根の際にあった一本は、天狗の団扇のような形で、へ…

「観潮樓」の庭づくり・その1

森鷗外のガーデニング 7 「観潮樓」の庭づくり・その1 鷗外は明治二十五年一月、千朶山房から北東に約400m先の本郷駒込千駄木町二十一番地(現在・文京区千駄木1-23-4)に転居した。六月になって、隣地の梅林(十九番地)を買い、敷地を三百二十坪(1,056㎡)に広げた。 長男・森於菟の「観潮樓始末記」(『父親としての森鷗外』)によると、「この土地は根津権現の裏門から北に向う狭い道で団子坂上に出る直前の所で、東側は崖になって見晴しがいい。根津に近い方は土地がひくく道の西側は大き…

住まいの変遷(根岸から千朶山房)と植物3

森鷗外のガーデニング 6 住まいの変遷(根岸~千朶山房)と植物3 ⑥根岸の借家 鷗外は、東京での生活にもなれた明治二十二年一月、下谷根岸金杉百二十二番地(後の下谷区上根岸町八十八番地)の借家に入居した。それは、赤松登志子との縁談が持ち上がり、結婚後の新居とするためであった。 この家は、明治二十五年、正岡子規が東京に初めて住んだ家(下谷区上根岸町八十八番地)の隣家である。その後の住まいとなる「子規庵」(上根岸町八十二番地)は、西に50m先にある。鷗外と子規は、句会に同席するなど…

住まいの変遷(千住からドイツ留学)と植物2

森鷗外のガーデニング 5 住まいの変遷(千住~独逸留学)と植物2 ④千住の住まい 明治九年、千住町に出来た区医出張所管理を森静男は、東京府庁から命ぜられた。当初は、小梅村から通勤した。同十一年、東京府足立郡の郡医を嘱託され、橘井堂医院を開業した。翌十二年一家は小梅から千住一丁目十九番地に引っ越した。なお、鷗外が明治十四年東京府に提出した開業免状下附願の住所がこの番地である。 妹・喜美子の『森鷗外の系族』(「千住の家」)によれば、その家の様子は、「小路を這入つて厭になる程行くと…

住まいの変遷(津和野から向島)と植物1

森鷗外のガーデニング 4 住まいの変遷(津和野から向島)と植物1 鷗外は、どのような経緯で植物に関心を深めたか、成長の過程を通して見て行きたい。津和野に生れ、上京するなどという住まいの変遷は大きな影響を与えただろう。また、ドイツ留学の経験は、視野を広げ、さらに大きく影響したと思われる。特に、どのような植物にめぐり合わせたかは、興味をそそられる。 ①津和野の生家 森鷗外、森林太郎は、文久二年一月十九日(1862年2月17日)、石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の藩医・森静泰(…

鷗外ならではの関心事(『伊澤蘭軒』)

森鷗外のガーデニング 3 鷗外ならではの関心事(『伊澤蘭軒』) ・美しさ 鷗外の植物への関心は、名前にとどまらず様々な事柄について記述している。まず美しさについては、「その三十二」に「紫黄相雑りて奇麗繁華限なし」と、ウツボグサやカンゾウなどとの、すなわち、紫色と黄色のコントラストの妙に触れている。「紫色と黄色」は、補色関係にあって、同じ場所に置くことで互いに引き立て合うことを、むろん鷗外は知っていた。たぶん、自庭の花畑においても、同様の組み合わせを試みていたのではないかと推測…

森鷗外の作品と植物1

森鷗外のガーデニング 2 森鷗外の作品と植物1 鷗外の博識は言うまでもないが、特に植物については、当時の専門家に負けないくらいの知識と関心を持っていた。彼は、作品に登場させた植物を自分の目で直に見るか、当時の資料(江戸時代の本草学書や園芸書、外国のガーデニング関連図書)を読み込んで植物の詳細を理解した上で、記していたと思われる。植物への関心は、見たことのない新しい植物に出会えば、すぐにその場で名前をメモするなどはごく当然のこと。不明な場合は、そのままにせず専門家に問い合わせる…

森鷗外のガーデニング

森鷗外のガーデニング 1 はじめに 森鷗外の趣味がガーデニングであったことは、ほとんど知られていない。だが、彼の書いた小説や戯曲などを読むと、花が大好きであったことに気づく。さらに、彼が遺した日記を見て、ガーデニングに熱中する姿を確認し、私は確信した。 たとえば、明治三十一年の日記には、植物に関連した記述が実に四十五日分も残されている。その三十五日は、鷗外の庭に咲いた花の記述である。ついでに言えば、日記に「新たな花が咲いた」ことしか書いていない日が十九日もある。実際の庭作業に…

人工林の明治神宮に学ぶ

自然保護のガーデニング 20 人工林の明治神宮に学ぶ 「自然をつくる」という言葉は、三十年も前に本田正次東京大学名誉教授が『自然保護』(N0.93-94)の中で述べている。もっとも当時は自然保護という言葉がようやく社会に知られるようになった時代であり、自然の開発をいかに阻止するかが重大な問題であったので、「自然の創造」という発想はあまり理解されなかったようだ。むしろ、この言葉は21世紀に持ってきたほうがよくわかるし、ふさわしくもある。今後は、理想とする自然の形態をきちんと想定…

自然を保護した仕組みの崩壊

自然保護のガーデニング18 自然を保護した仕組みの崩壊 江戸から明治への社会体制の変化は、国内のいろいろな仕組みを変えていった。日本の自然は、その影響を大きく受けて今のような状況になったのであるが、政府はその変化を予測できなかった(というより、目をつぶっていた)。最も大きな影響は地租改正で、これによって土地利用の分断や人心の荒廃を招き、江戸時代の自然は破壊されていった。 江戸時代の農村の土地利用と言えば、水田や畑のそばに百姓の家屋があり、それに続いて居久根林、百姓持林、その背…

植栽地の環境を整える(乾湿)

和のガーデニング3 植栽地の環境を整える 1-2 土壌条件(乾湿) 土壌中の水分は、植物の生育に大きな影響を与えます。水浸し場所から、乾燥した場所まで土壌の条件はいくつかに分けられます。ただ、土壌中の水分が植物に与える影響は、水分が停滞するか入れ代わる(流水)かによって大きく異なります。ここでは、あまり変化しないものとして、5段階に分け植物を紹介します。 1.水を含んだ土壌(水生植物) 水中でたっぷり水分を含んだ土壌に生育する植物として、カキツバタ、ヒツジグサ、ミズバショウな…

植栽地の環境を整える

和のガーデニング 2 1 植栽地の環境を整える 山野草を育てるのに最も重要なのが環境形成です。安定した環境が成立すれば、さほど手を入れなくても山野草は生育します。マンションのベランダだから、裏庭で狭く日当たりが悪いから、などとあきらめている人が少なくありません。確かに、何も工夫をせずに直接植えれば、なかなか育ちません。しかし、山野草の中には、こんな所でも花を咲かせるという植物もあります。 環境として注意するは、日照と気温、湿度(空気中・土壌の乾湿)でしょう。他にも、風通しや降…

和のガーデニングを始めましょう

和のガーデニングを始めましょう はじめに 日本は、世界で最も草花の種類が豊富な国です。日本ならではの美しい花が四季折々に咲き、日本人の感性を豊かにしてきました。そのような花をもっと身近に鑑賞できることを願って、山野草による和のガーデニングを広めたいと思います。 山野草は栽培が難しい、と思い込んでいる人が少なくありません。しかし、植えてみると容易に生育し、世話も案外楽な植物がいくつもあります。まずは草花の性質や特徴を知り、実際に育ててみることから始めましょう。 まず、苗や種をど…

江戸時代の自然が消える!?

自然保護のガーデニング19 江戸時代の自然が消える!? 明治になって、日本の自然が急激に改変していった(破壊された)のは、次の二つの要因によるものと考えられる。一つは、人間による直接的な自然破壊、もう一つがオオカミの絶滅などによる生態系の変化である。なお、オオカミの絶滅も人間の手によるものだという説もあるが、真相は定かではない。 明治維新後に起きた人間の手による破壊は、具体的には、廃仏毀釈と称して、寺院・仏具・経文どとともに境内林にまでおよんだ。その上、藩政が廃止されると、城…

冬の草花

和のガーデニング 17 冬の草花 十二月に入ると、草花の大半は枯れ、地上から消えてしまう。冬の庭に咲く花としては、ウメやスイセンなどが定番となる。それに加えて花とはいえないが、胞子をつける葉が花のように見えるフユノハナワラビがある。また、茎から水分が滲み出て凍り、霜柱のように見えるシモバシラある。さらに、葉が緑のカーペット状になるヒメウズがある。これらは、温室で咲いている花と比べれば華やかさはないが、冬の美しさを感じる鑑賞眼を研ぎ澄ませれば誠に趣がある。春を先取りして、色とり…