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…中期 不安を示す庶民娯楽 世界的な軍縮を受け、陸軍・海軍とも軍縮計画を進めることになった。前年からのワシントン会議で海軍軍備制限条約が締結され、それに対処するものである。世界に不況ながらも平和な陽ざしがさしこむようになると期待されだが、イタリアではファシスト党がムッソリーニ内閣を組織し、独裁政権によるファシスト化への動きがはじまった。 国内では、緊縮財政策をかかげ、健康保険法、未成年者禁酒法等が制定された。高橋首相はさらなる改革を目指し内閣改造を目論んだが、総辞職に追い込まれ…
… 不景気で不安な庶民娯楽 大正十一年、高橋是清首相は緊縮財政策を目指したが、内閣を統率できず総辞職。他方、野党が提出した普通選挙法案は、三度も否決された。政局が混迷する中、政党外の軍人が首班となり、軍部・官僚・貴族等による内閣が成立した。 不景気で節約ムードが浸透するも、三月からの平和博覧会が開催されるや、一千百万人を超える入場者を記録した。ビッグイベントがあると市民のレジャー熱は、誘発される傾向があり、映画や演劇なども前年よりも多くなっている。また、夏は暑かったらしく海や山…
…期 不景気の中の庶民娯楽 大正十年の後期は、次々にその後の日本の進路に影響する事件や事象が続いた。不景気による労働争議は、政府の弾圧を激しくさせる。戦前最大のストライキ、川崎・三菱神戸造船所争議は、軍隊が出動し、警官隊が争議団に対抗するなど激化した。その他にも、足尾銅山争議など、争議の規模は大きくなり、各地で多発した。そして、米が豊作であったにもかかわらず、小作争議が多発して不安な世相は人々の深層に浸透した。事件も、九月に安田財閥の当主安田善次郎が刺殺され、十一月には原首相が…
…期 不景気の中の庶民娯楽 ちょうど百年前、1921年の読売新聞五月二日の朝刊5面の紙面を見て、現代の新聞の論調と比べてみたい。その頃の新聞は、東京で繰り広げられている活動や事象を、記者が見たままを伝えることができていたみたい。この年辺りまでが、新聞に自由な論調で記事を書くことのできたのでは、4年後には治安維持法が制定されている。 五月一日のメーデーに関する記事を、読売新聞の見出しから紹介する。『昨日の労働祭』。『場内擾乱』。『葉桜の上野に解放の獅子吼』。『斯しくて進む 革新の…
…おり、彼らが指示する娯楽は以後さらに活気を増していく。 新聞は中流以上の人々に視点を合わせ、歳末の話題はデパートの動向に注目している。以前のような歳の市の賑わいは報道されなくなってしまった。ただ、浅草観音歳の市の出店情況は、しめ飾り26・宮師34・羽子板47・桶屋51軒を始めとして1千5百軒との記事がある。縁起ものの店は数年前と変わらないもののその他の露店が増えているようだ。十八日付の新聞(東朝)には「活動写真と飲食店が不景気の槍玉に 歳の市の商人だけ売れそうですと大喜び」と…
…それに最も有効なのが娯楽である。その娯楽も、労働祭のような政府の意向に従わなければ禁止され、庶民が参加しないようにされてしまう。 ・五月「五月場所初日 大入場は寂しい 選挙疲れか不景気か」十五日付讀賣 日本初のメーデーは、三日付の新聞(万朝)に、「最初の労働祭演説会 十余団体員上野で火のような気焰」という具合に書かれている。労働者の祭りは、余興を楽しむ運動会ではなくなっていた。同じ紙面に、「新畫の値段は半分に下落した」とある。不景気は美術界に最も鮮明に反映された。映画や芝居は…
…の大正八年前期の庶民娯楽 原内閣が有効な経済施策を打たない中、「熱狂的好景気」といわれる実体の伴わない、いわゆるバブル景気が始まった。東京市内の物価は上がり、例えば、かけそばやもりうどんが日を追って7銭・8銭・9銭・10銭と値上がりした。そのため、下層階級の生活は苦しくなり、労働運動や労働争議が増えていった。 市民レジャーは、好景気の余韻を受けて盛況である。特に演劇は、史上最高ともいえる観客数になった。まだ世相に暗さがないためか、「東京節(パイノパイ)」「デモクラシー節」「浜…
…正七年中期の東京は、娯楽に浸る庶民が大勢いた。地方では徐々に不景気風が吹き始めていた。東京では、成金が金にまかせて謳歌しており、庶民もつられていたようだ。 しかし、米騒動の情報が東京にも流れると、事態は一転した。・五月「電気博覧会期延期」九日付讀賣 森鴎外が家族連れで二十日に見物した電気博覧会は、会期を十日間延長した。この博覧会は名前から予想つくように、いたって地味な展示であったが、それでも入場者数は、十五日で96万人に達した。二十一日は、博覧会デーとして入場料を割引、余興館…
…興行規則実施。検閲が娯楽にも浸透し、フイルムのチェックだけでなく、何と男性と女性を分けて別席にするとか。現代ではこのようなナンセンスな対応は、考えられない事である。昭和に入ってさらに強化するのであるが、その布石と思わせる。 十月一日の東京湾台風。東京の下町、月島、築地、深川などが浸水し、死傷者など千五百人余、甚大な被害を被った。しかし、その復興がどのように進められたか詳細はわからない。たぶん、蔑ろにされたようで、庶民をイベントや娯楽に熱中させることで気を紛らわさせていたような…
…る様子を「治外法権の娯楽場」と。さらに十七日付は、飛鳥山に前日10万人の人出があって、酔い倒れが71人、迷子が53人もでたことも報告している。十六日の花見が近年最高の人出を記録し、上野の人出が30万人、上野駅の乗降客は11万人以上に達したことを掲載。なお、花見の記事ではないが、十二日の新聞(報知)に、市内に約5万本のサクラの木が存在すること、府下全体では約7万本に達すると十二日付の新聞(報知)にある。・五月「一高 又勝つ」十四日付讀賣、 「五六連勝中の横綱太刀山が敗れ満場数万…
…ず 22読 みやこ館「ヂューブ大探偵」上映 28朝 目黒競馬初日、景品券で大賑わい 28読 遊楽館「赤垣源蔵」他の連鎖、大好評 12月10朝 上野公園で東京市民の大礼祝賀頗る面白く勇壮 12読 首相官邸で3千人の華やかな大夜会 13中 両国国技館で羅馬式演武のトーナメント 13中 餅搗き芝居はズラリと見事に失敗 21森 鴎外、銀座に物買いに往く 25読 帝国劇場で25日からクリスマス娯楽会 25読 両国国技館で忘年大演芸会、35銭均一 29読 納の不動、境内付近は非常な賑わい
…年後半、景気は下降で娯楽も停滞・七月「有栖川宮斂葬日」「謹んで休業 淋しい浅草」十八日付東朝 七月、藪入りの日は暑い一日。一本4銭の扇を手にした小僧さんたちが大勢、上野や浅草へ繰り出した。上野三橋のお閻魔様の片側一帯に店が立ち並び、小僧さんたちは閻魔堂から公園内の明治記念博覧会のジオラマや動物園へと流れて行った。動物園の入場者は昼までに5千人は固いとある。公園前から出る浅草行きの市電は雷門で空になり、小僧たちは四発1銭の射的場をのぞき、一杯1銭の五色の水を手に、木馬館や十二階…
…大正二年は不景気でも娯楽はそれなりに 大正二年の事件としては、二月に護憲派の民衆が議会を取り巻き、桂首相は内閣を総辞職する。この総辞職は「大正の政変」とされ、藩閥政治がおわり、あらたな政治の始まりを期待させた。しかし、政局は不安定で、政費削減が進められたものの、景気は改善しなかった。 東京では、二月に神田で大火があり3千8百戸が焼失。不況が続くことから、明治天皇崩御の暗さを引きずったままで、市民のレジャーも停滞していた。この年流行したのは、ローラースケート、女優まげ(前髪を七…
…7 新しい時代に入り娯楽は自粛 1912年は、日露戦争が終わって六年目だが、戦争による国民の疲弊はまだ残っていた。それでも東京は、首都として日進月歩の勢いで変化していた。市民は日々の生活に追われながらも、変わり行く街の中で楽しみを求めていた。 この年の正月はまだ明治時代、前年からの市電のストライキに翻弄されながらも、市民のレジャーは、初詣をはじめ活発なスタートを切った。藪入り、節分と行楽活動は月を追って盛んになっていた。明治四十五年の大きな事件としては、三月に深川洲崎の大火(…
… 146明治の遊び・娯楽を考える 欧米の文化を積極的に取り入れ、文明開化を押し進めた明治時代、東京市民は、はたして江戸の庶民より幸福だっただろうか。遊び・娯楽から見ると、必ずしも文明開化の恩恵を受けたとは言いがたい。特に下層階級の人々は、江戸時代よりも楽しみを奪われてしまったようだ。 明治時代は、五箇条の御誓文をもとに文明国をめざして近代国家を形成した時代とされている。国会や憲法、鉄道や道路など、新しく出現したものによって、人々の暮らしは便利に、豊かになったと思いがちである。…
…と思われる。 行楽や娯楽などの形態にも、新たな変化が現れた。まず、中流者には、インテリ層と呼ばれる人々が生まれ、文芸だけでなくレジャーにも積極的に活動しはじめた。特に学生は、時間があり先端情報が得られることから、行楽や娯楽なども率先して行い、オピニオンリーダー的な役割を担った。当時のレジャーは、欧米のものであれば何でもいいというわけではなかった。また、江戸時代の郷愁に浸る、というのとも違う新たな傾向が見られるようになった。大衆レジャーも、工業労働者の増加で、休息や気晴らしを求…
…ペラ館)と遊園地風な娯楽場ルナパークができた。ルナパークは、米国コニーアイランドにある遊園地ルナパークを参考にして造られた遊園地で、自動機械館(当時珍しかった電機諸機械等)、海底旅行館、天文館、木馬館(メリーゴーランド)、汽車活動館などのほか、中央庭園の築山から滝を落とした約16.5mの大瀑布や温室、それに海外諸外国の物産販売店や東京及び地方名産販売店が一体となっていた。 ルナパークのなかで目を引くのは、汽車活動館と木馬館であろう。汽車活動館は、客車の形をした部屋、その前方に…
…40大恐慌四十二年の娯楽四月種痘法公布/十月伊藤博文ハルビンで暗殺・大恐慌下の市民レジャーはさほど変わらず 東京は大恐慌である。市内の人口は寄留人口を整理して53万人と、約25%も減少し163万人になった。これは、帳簿上の整理で人口が減少しただけではなく、実際にもかなり減っている可能性がある。演劇や寄席の観客数はそれぞれ408万人から347万人へ、456万人から396万人へと、5%、13%減少した。また、見世物は逆に521万人から732万人へと40%も増加している。演劇、寄席…
…9不況でも四十一年の娯楽は盛況六月赤旗事件/十月戌申詔書/十一月高平ルート協定成立・不景気でも劇場はどこも大入り 銀行の支払い停止が前年から続いているような状態で、景気はさらに悪化していた。しかし、大衆のレジャーは前年を上回る勢いで伸びている。正月から市村座をはじめ各劇場は、大入、好人気などと新聞広告を出すほどの盛況。麹町有楽町の旧五二館跡で興行したチャリネ曲馬団も、特等70銭~三等15銭と入場料は決して安くなかったが好評。呼び物は、半哩(マイル)競争や障害物競争などの子供の…
…十年戦後不況でも庶民娯楽は盛況二月足尾鉱山で暴動/七月第三次日韓協約調印・戦争恐慌下の東京勧業博覧会 一月、東京株式市場の相場が暴落し、日露戦争後の恐慌がはじまった。不況は労働争議を激化させ、この年は、全国で165件と明治年間で最も多く、過激なストライキが発生した。全国的に低所得層の生活が厳しくなり、東京も例外ではなかった。仕事を失い、東京に住めなくなる人が多数でてきた。そのため、それまで増加の一途であった東京市内の人口が減少するという現象が起きた。しかし、なぜか東京の大衆は…
…を引く三十九年の庶民娯楽三月鉄道国有法公布/十一月南満州鉄道株式会社設立・戦後の落ち着きを示す行楽の人出 元旦の読売新聞には、お楽しみとして、劇場や寄席のプログラムが掲載されている。16劇場のうち14座が芝居、2座が奇術と浄瑠璃、寄席はあまりにも数が多くてすべてを紹介することができないくらいである。元旦は曇りであったが、初日や初詣に多くの人出があり、日露戦争によって抑えられていた大衆のレジャーが、復活しはじめたことがわかる。一月の回向院の大相撲は、晴天が続いていることもあって…
…えない三十八年の庶民娯楽一月旅順のロシア軍降伏/五月日本海海戦/九月日露講和条約締結・戦争に勝ったけど・・・ 正月二日、旅順陥落の朗報が入る。三日の新聞には、戦勝の余響で初出も景気がよさそうと、書かれている。しかし、二日後には、好天に恵まれたにもかかわらず初卯の参詣人はチラホラ、全般に不景気と論調を変えてしまった。その後、初水天宮や初巳には、大勢の人々が参詣し守り札を買い求めているが、店の売り上げをあげるまでにはならなかった。日本橋区や深川区の板ガラス組合や小間物化粧品組合、…
…庶民の楽しみ 135娯楽も戦時色の三十七年二月日露戦争勃発、日韓議定書締結/三月旅順で広瀬中佐戦死・日露戦争下のレジャー事情 前年より新聞は政府の意を受けて、強硬外交論を唱え、開戦へと世論を誘導した。大衆の対悪露感情を悪化させることによって、非戦論は完全に押さえ込まれ戦争へと突き進んでいった。二月、ついに日露戦争が始まる。大衆のレジャー活動にブレーキがかけられる一方で、戦捷祝賀会がたびたび催された。仁川・旅順での戦況についても、まだ戦いは始まったばかりなのにまるで勝ったかのよ…
…み 134三十六年の娯楽に感じる忍び寄る戦争四月政府対露方針決定/十月小村外相とローゼン露公使の交渉開始・人気役者が消え、客離れの進む歌舞伎 この年、二月に五代目尾上菊五郎が死去、後を追うように九月には九代目市川団十郎が世を去った。それでなくても劇場への観客の足が遠くなっている時期である。歌舞伎の二本柱を失ったことは、演劇界に大きな衝撃を与えた。劇場観客数は、前年より51万人減少して285万人となった。演劇、特に歌舞伎を大衆が気軽に見に行くようになったのは、明治になって、それ…
…年に忍び寄る不景気の娯楽一月八甲田山で青森歩兵第五連隊遭難/日英同盟調印・上野動物園は賑わうが停滞気味の市民の行楽 一月、上野動物園にドイツのハーゲンベック動物園からライオンとホッキョクグマなどが新たに入園した。ライオンやホッキョクグマなどの人気は高く、この年から入園料が大人四銭、小人二銭と二倍に値上げされたにもかかわらず、入園者は前年より30万人以上増加して史上最高の約95万人の人々が訪れた。二月、日英同盟協約締結を受けて祝賀会がいくつか開催された。もつとも大衆を巻き込むよ…
…入るも変わらぬ庶民の娯楽二月福沢諭吉死去/五月社会民主党結成も2日で禁止/六月星亭暗殺・二十世紀を迎えるエリートの祭 明治三十四年は、イコール西暦2001年と、ここからは二十世紀を迎える。慶応義塾では、「十九世紀・二十世紀送迎会」が催された。運動場では五つの大きなかがり火が焚かれ、カンテラが並べられ、「官尊民卑」「守銭奴」「階級制度の弊害」「妾の悪習」などの十九世紀の風刺画と、「独立自尊」「文明の光」「四海を照らす」「社会の灯(トモシビ)」など、二十世紀に期待する言葉を大写…
…から徐々に盛り上がる娯楽五月皇太子成婚式/六月義和団事件で日本出兵/九月立憲政友会結成・平和を反映し市民のレジャーは盛り上がる 浅草は、元旦から大勢の人々が訪れている。当時、市民の間で、三箇日に観音さまを初詣して、浅草公園で遊ぶというスタイルが定着していた。特にこの年は、「近来人の耳目を引く観覧物」と新聞に書かれた珊瑚閣が開業、前年十月にオープンした水族館も相まって賑わいを増した。珊瑚閣には、高さが二三尺、目方が三四貫もある特大の桃色珊瑚が陳列。桃色珊瑚は、学術上も装飾品とし…
… 130多様化が進む娯楽に三十二年頃から取締三月義和団事件勃発/七月明治天皇、東京帝国大学卒業式で銀時計授与・盛んになる行楽活動にしのび寄る取締り 東京の町は、日清戦争から五年たって、ようやく落ち着きを取りもどし、庶民も正月らしさを味わえるようになった。たとえば安政の大地震以降絶えて久しい、隅田川七福神めぐりが復活したという記事がある。七福神めぐりは、幕末の頃流行したが、明治になって徐々にすたれた。それが三十年以上経って再び流行のきざしを見せ、以後年々盛んになった。初詣に託つ…
…不景気明治三十一年の娯楽様相六月隈板(わいはん)内閣成立/八月尾崎行雄の共和演説/十二月地租増徴案成立・不景気で行楽の人出も今一つ 亀戸妙儀の初卯は、天気に恵まれ大勢の人が出たが、財布の紐は固く飲食店の売り上げはのびなかった。劇場の正月興行は、歌舞伎座などを除く14劇場で催されていた。当時の観劇料金は、最も高額の春木座の桟敷が3円70銭、安い桟敷は開盛座の50銭。最も安い大入場も同じく開盛座で3銭である。桟敷の料金は、劇場によって大きな差があった。一方大入場は、高くても10銭…
…年に始まる映画という娯楽 三月足尾鉱毒被害者二千人上京/十月金本位制度実施・活動写真が始まる 真偽のほどはともかく、明治30年以前にも活動写真が東京で行われ、喝采を博したが経費倒れになったという話がある。しかし、活動写真が広く東京市民に受け入れられるようになったのは、30年からである。一月に浅草花屋敷でキネトスコープ(のぞき見式活動写真)が封切られ、二月には小山内薫がそれを見ている。新聞の見出しには、「写真の活働」とあり、「活動写真」ではない。上映されていたのは、「連発銃射撃…