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…日のように報道され、娯楽の制限されるなか大勢の人が関心を持ち、学生たちを中心にあちこちで観測された。 「威勢良く海軍省へ神輿獻納」と、東京市荒川区町屋の若衆一同は、春祭りを前に神輿の応召を決意。そこで、奉納を前に、決別を込めて威勢よく担いだとある。このほかにも、市内各地で神輿獻納が続いた。 ───────────────────────────────────────────────昭和十八年(1943年)三月、ダンビール海峡で日本輸送船全滅①、第一回防空服装日⑩、「撃ちてし…
…物相応の入なり」と、娯楽を求める市民が大勢いたことを荷風は記している。八日初日の日劇も「ついに日劇新体制以来のレコードを破った由」と、ロッパは気をよくした。演し物は、『歌うロッパ』『園芸百科事典』で、二十一日の千秋楽まで満員が続いた。特に十六日は、「靖国神社祭礼で世間は三日休みが続く由。日劇も九時開場でもう大満員」。十八日は「靖国祭で日曜、人出は大変。日劇、一回目からは大満員・・・今日は又レコード破りの大満員らしい」。 郊外での行楽を制限された市民は、市内で過ごさざるを得なく…
…されているが、市民の娯楽に選択肢がなくなっている。制限はレジャーだけではなく、食べ物も厳しくなってきた。ロッパは十八日、銀座のモナミの二階で「ビフシチウとライスカレー。客は満員。みなシーンとして、学校の教室にいるように元気がない。運ばれる皿を、文句も言わずに待っている・・・この光景、時世の姿」と。 ───────────────────────────────────────────────昭和十六年(1941年)六月、迷信記載の暦を発禁①、独ソ開戦(22)。────────…
…はいずこも雑沓すること甚し。餓鬼道の浅間しさがを見るが如し。町の角角には年賀状を廃止せよ、国債を買え、健全なる娯楽をつくれなど勝手放題出放題の事かきたる立札を出したり。電車バスとも混雑して乗ること難し」と、荷風は十三日の日記に、この頃の世相を記している。 ロッパは、二十六日の夕方、銀座へ出て「大した人込み、何だか景気はいいらしい」と。三十一日には、「門松がお粗末なのだが並んでいる以外は、何処にも大晦日の気分は無い。お正月の来る感じは少しも無い。味気ない世の中だ」と書いている。
…感じたように、市民は娯楽を求めていた。 ───────────────────────────────────────────────昭和十五年(1940年)九月、劇場・映画館など早朝興行廃止①、雑貨品の公定価格決定⑥、北白川宮殿下国葬で音曲停止⑱、東宝が移動奉仕部隊結成(27)、六大学リーグ戦の試合数減少と自粛が増えても市民のレジャー気運はまだ高い。───────────────────────────────────────────────9月1日a 東京劇場「民族の祭典…
…さあすすまう! 国民娯楽日も必要だ」である。アメリカ、フランス、イギリスは、「娯楽のための娯楽」「休養のための休養」と、純粋に楽しむことを推奨している。それに対し、国家主導のドイツ、イタリアでも、「収穫祭や家庭慰安日には民謡、バラエティー、キャバレー或いはラジオ、演劇を通じて集団的な勤勉の喜びをたたえている、旅行部など二万五千屯の大汽船を八艘持ち、オリンピックを機に日本を訪れる話が進められたほどである。」と紹介している。 どちらにしても、レジャー引締めを強化している日本とは、…
… 12日A 非常時故娯楽場は槍玉、映画館等新設禁止 12日a 大相撲夏場所初日、前日の朝から詰めかけ夜十時開場 24日a 大相撲夏場所、後半双葉山連勝で五連続優勝などで沸騰し大入りを続け千秋楽 28日a 海軍記念日、帝都大行進 30日A 上野の戦争美術展、18日間で約6万人 30日Y 多摩川園で軍国デー「轟く三万人の大合唱」 一日、市内の人出は、外苑競技場に「二万余の観衆」、国防博覧会や動物園など相当賑わっている。相撲の人気は頂点に達し、初日前日の夜から開場する羽目になった。…
…日まで点灯禁止の令あり。市中到処騒しく住民其職を抛って徒に狂奔するが如し。銀座三越は夕五時に閉店し歌舞伎座は休みとなれり。銀座辺飲食店大概七八時頃戸をしめると云う」と、日記に記している。 ロッパは、「夜の部も大した入りで補助を出し切った、近処の日劇も、列をなしている。四日間のくらやみで娯楽に飢えた姿である」と十九日の日記に書いている。二十五日から「円タクの深夜の流しが禁止」a⑦。秋の行楽を中止して献金を求める記事が目につく。「銀翼へ捧げる赤誠」a(27)など自粛ムードが浸透。
…休息日で、映画館など娯楽施設が満員であったことから推測できる。また新聞は、建国祭の盛り上がりを引き継ぐように、「征旅十カ月、勇姿竌爽と都入り」と、歓迎の様相を写真と共に報じている。征旅十カ月がどの様なものであったか、市民はその実態を伝えること無く、まるでオリンピック選手の凱旋を彷彿させる印象を操作している。 ───────────────────────────────────────────────昭和十二年(1937年)一月、広田内閣総辞職(21)、陸軍火工廠板橋火薬製造…
…日記から、二日「玉の井稲荷の縁日にて人出多し」、七日「夜物買いにと銀座に往く。日曜日にて街上書生の泥酔するもの甚多し」、など市内の人出は五月から続いている。映画も浅草電気館などが満員御礼の広告を数多く出しており、市民のレジャー気運は高い。 「国民歌謡」の放送がはじまるが、流行歌『忘れちゃいやよ』のレコードが発売禁止になり、レジャーの規制は進んでいる。また、落語家や講談師など250名が愛国演芸同盟を結成、カーキ色折襟、戦闘帽の制服を作ったりと娯楽にも軍事色が徐々に浸透している。
…行街に流れた。正月の娯楽は、映画と演劇と言って良いほど。また、相撲人気を反映するように、春場所前日から詰めかけ、午前十時に札止めの盛況。取組み内容は、横綱を狙う男女ノ川が2敗するなど盛り上がりを欠いていたが、客の入りは千秋楽まで満員。これは、他に見るべきものがなく、レジャーの選択肢が狭いためだろう。 二十一日の諏訪根自子“渡欧の夕”は日比谷公会堂を超満員にした。また、二十七日の「歌の帝王」シャリアピンのリサイタルも満席。新しいものが提供されれば、何でも飛びつくようで、十三日に…
…読売新聞夕刊の「日曜娯楽」には、「映画とレヴユウのファンへの大きなお年玉は、近く開場される東京寳塚劇場、日本劇場、日比谷劇場の三館だらう。この三館に入場し得る人数を合計すると約一万近くになり、これらが揃つて、日比谷公園近くに並び立つといふことは、最近の興行界の偉観である。」と当時の娯楽の情況を記している。演劇には弾圧が始まったが、映画とレヴユウには、本格的な引締めがまだ始まっていない。 その情況は、日本劇場・・東洋一の偉観、詰めれば 優に五千人収容。日比谷劇場は工専費卅万円、…
…はタブーとなった。 娯楽でも同様、闘争意志をもり立てるには、スポーツ観戦が最適である。勝ち負けに拘り、選手と一体となって応援する雰囲気、その興奮を伝える。スポーツならではの効果を、政府、軍は見逃すわけがない。野球くらいでは効果が薄いと思ったのか、神宮体育大会は、全国から一万人もの人々を集め、盛大になるように催している。 街中は、活気までとは言えないが、ザワザワするような動きが起きている。早慶戦で死傷者が出たり、招魂社祭礼の活況、明治節の盛り上がり、出兵兵士の見送りなど、人の動…
…日比谷新音楽堂で家庭娯楽会に八千人 25日A 大相撲夏場所千秋楽、三四階席は鈴なりの満員 メーデーは、不景気を反映して「五万人」の大規模なデモと予想した。が、「物々しい警戒裏に メーデー大行進 一万五千の会衆に五千の警官」であった。これまで新聞は、どちらかといえば労働者側に立っていたが、この年から、「未曾有の大検束 八百五十名に上る」「象潟署長負傷す 石でなぐり付けられて」「松阪屋へ殺到 ガラス戸を破壊す」と書きはじめた。新聞は明らかに忖度をしている。 十日、装いを新たにした…
…び方が増えた五年秋 娯楽を求める人々の数はあまり減らないものの、世知辛い遊び方をする人たちが目に付く。十一月の初め頃までは、遊びの賑わいは前年と同じようであったが、浜口首相が東京駅で右翼に狙撃されると、一気に萎れてしまった。菓子やタクシー料金などの値下げが顕著になり、前年にも増してデフレムードが漂った。また、賭博や「エロ・グロ・ナンセンス」が流行するなど、社会の暗さが目に付く。その一方で、歳末の商売では高級品の売れ行きが増したとか。貧富の差が広がって行くようで、社会の不満は、…
…は過去の手工業時代の娯楽を失ひつゝある、場所とか根気とか長い時問を必要とする娯楽たとへば謡曲とかびわとかさうしたものの次第に隔絶して自ら大衆的な娯楽に走る結果となる、自然劇場が非常な勢ひをもって人々を集めてくるのだ、近頃の劇場狂景気時代の根源は大きくいへばそこにあると思ふ、それと同時に近年の失業地獄が劇場を賑かにしてゐることをいはなくてはならない、最近家には一人や二人の失業者を抱へてゐない家はないといっていゝ、然るに我國の社会状態はいまだに家族制度を保有してゐる、だから失業者…
…変わりゆく大正時代の娯楽・レジャー・レジャーとしてのスポーツ 大正時代のスポーツと言えば、野球であろう。子供たちの間では、野球も相撲と同じように遊びの一つとして日常的に行われた。しかし、大人となるとまだ観戦が主で、実際にプレーする人は非常に少なかった。また、スポーツ観戦と言っても、球場や国技館にわざわざ出かけ行く人は少数で、市民の一割にも達しなかったと推測される。ナマで見ることが少ないわりに人気があったのは、新聞の存在が大きかった。シーズン中は毎日のように記事を掲載し、市民の…
… 大正時代に衰退する娯楽・レジャー・娯楽の盛衰 時代の変化を感じさせるのは、衣食住であるが娯楽も同様である。その変化は、娯楽の方が早く展開し、顕著であるように思う。生活様式は、なかなか保守的であり、住宅などは耐久年数が長いことから変化が遅い。早いのは、やはり衣服の方であろう。後の人たちが見ると、衣食住の形がアンバランスを感じるのだが、当時の人たちはそれが自然であった。 娯楽の変化は数年で進むことがある。映画の浸透は著しく、娯楽全体に及ぼす影響が大きく、大正時代ならではの現象で…
…時代に最も楽しまれた娯楽・レジャーは、映画・博覧会・花見である。これらは、大正期に最も多くの東京市民が楽しんだ三大レジャーといえる。その規模は、市民の半数以上(延べ100~1000万人)が参加又は動員されている。また、レジャーという意識はあまりないものの、心身のレクリエーションに非常に効果があったと思われる参詣・参拝も大勢の人々が行なっていた。 博覧会、様々な珍しい物品を展示するイベントは、明治時代から催されていた。人々に科学技術や芸術文化などを示し、一般社会の知見を高め、産…
…大正時代の余暇事情と娯楽レジャー・大正期の人口と余暇事情 大正時代は15年あるものの、実質14年であった。その間の娯楽の変化は明治期より大きく、また、続く昭和戦前までよりも見るべきものがあった。市民が積極的に楽しむ娯楽は、大正ロマンとでも言えるような活気と変化が感じられる。ただ、すべての市民が共通して享受したかといえば、否、必ずしもそうではなかった。目新しいレジャーやスポーツ、大正ロマンを感じさせる活動の主な担い手は、中流以上の階級の人々がになっていた。それでも、大正ロマンの…
…後期 大正時代終焉の娯楽 この年は、景気の低迷を反映してか正月の人出が少なく、十二月になっても回復しなかった。地域の祭りや縁日などにも以前ほど参加している様子が見られず、人出はあってお金は落ちず、不景気が浸透していた。市内で活発に遊んでいるのは学生で、野球などスポーツ関連の活動が盛況である。とは言っても、人数は学生野球はお会式の一割である。景気づけなのだろうか、新聞は、下層の市民には関係ない学生スポーツを取り上げていた。そして、天皇陛下の病状が悪化は、ラジオ放送は演芸番組を中…
…がった。また、新たな娯楽も増え、娯楽の多様化は、夏のレジャーにも顕れた。上流階級の避暑は明治から行なわれていたが、庶民については大正時代の後半、関東大震災以後であろう。女性の水泳が話題になったのが大正8年である。それから10年も経たないうちに、庶民も東京から脱出して海や山へ出かけるようになった。 ラジオの普及は、音楽番組の人気で隆盛である。とはいっても邦楽、いわゆる流行歌ではない。その演目は、新しい曲を求めるのではなく、郷愁を誘うような曲と感じがする。・五月「不景気挽回策とし…
…2 大正十五年前期 娯楽の多様化が進む 大正十五年、この年は、東京が大都市としてスタートした年と見ることができそうだ。世情は徐々に新しい風が吹きはじめ、女性の「断髪」やハンドバックの流行など、女性の進出が目につくようになってきた。またレジャー関連では、ラジオが下層階級にも普及し、市民に欠くことのできない娯楽になった。ラジオが大勢の人々に聞かれるようになっても、だからといって映画や観劇の観客が減少することはなかった。この年のレジャーは、前年にも増して海水浴へ出かける市民が増加し…
…大正十四年後期 商業娯楽が浸透し始める 時代の変化を感じさせる大正14年の後期、東京の人口は増加し、都市構造についても変化していた。市内は、山手線の環状運転が始まり、新宿・渋谷・池袋などから郊外から通勤する人々が増加した。市民の遊び場も、市内から溢れるように郊外へと足を伸ばす人たちが増えて行った。それを見込んで、新たな谷津海浜遊園や多摩川園が開園した。 江戸時代から続く、自然発生的な遊びに加えて、商売として娯楽を提供することが盛んになり、娯楽の商業化が進んだ。遊びの有料化、お…
…締めを感じてか盛んな娯楽 4月に治安維持法、5月に普通選挙法と、重大な法律が公布された。普通選挙法は、成人男性の普通選挙実施による政治運動を進めることになり、それに対し、過度の政治運動を抑制するための治安維持と、この二つは「飴と鞭」とも評された。また、治安維持法は、1月の日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交樹立が、共産主義革命運動の激化の懸念を念頭にしていたとされている。 大衆は、そのどちらにも大きな関心を持っていたとは感じられない。新聞には、以下のような記事が掲載され…
…四年前期 新たな風は娯楽にも 大正十四年三月、普通選挙法案は、枢密院や貴族院での修正が加えられるなど難航したが、ようやく治安維持法とともに成立した。七月、加藤内閣は、閣議で税制などの意見が異なり総辞職。本来なら、あれほど熱望した普通選挙が可決されたのだから総選挙を行えばよいものを、議員は自分たちの権益を維持するために総選挙を回避した。そんな国会に対し、民衆からの反応というと不思議なことに選挙実施の要望は目につかない、感じるのは国政への関心のなさである。「世は不景気ながら天下は…
…復興を感じさせるのは娯楽 震災から一年、市民の遊びを見ていると、それなりに復興していたものと感じられる。その娯楽・行楽活動から、東京には様々な人々が生活をしていて、それぞれの階級ごとに楽しんでいたことが見えてくる。・九月「お中日、被服廠跡は雨のようなお賽銭、上野の各展覧会や動物園も大入り」二十四日付東朝 一日には、東京府・市は、震災一周年を記念する様々な行事を企画した。府市連合の尊難死者弔祭式をはじめ、震災展覧会、丸ノ内と上野で記念講演、上野・芝公園などで活動写真会、防災宣伝…
… 徐々に復興 市内の娯楽も 九月で関東大震災から一年となる。関東大震災からの復興は徐々に進みつつあり、娯楽も少しずつ賑わいを取り戻しつつあった。人心の混乱を発生させないように、メーデーを包囲するように制御し騒ぎにならないよう抑えた。その一方で、落ち込んだ人々の気持ちを盛り上げるため、御成婚奉祝会を東京市は大々的に催した。市民30万人もを動員するイベントとし、奉祝気分を盛りあげ、人々の落ち込んでいる気持ちに潤いを挿した。 このような手法によって、市民を誘導することができることを…
… 復興に追われ市内の娯楽は停滞 この年、一月に成立した清浦奎吾を首班とする貴族院内閣は衆議院を解散、五月の総選挙では護憲三派が大勝し組閣にこぎ着けた。こうして、形の上では「大正デモクラシー」運動が実を結ぶことにはなったとも言える。しかし、だからといって民衆レベルの民主主義的な要求が飛躍的に高まったと見ることはできない。まだ、女性はもちろん、国民全てに選挙権(全人口の6%以下)が与えられていない。震災の影響もあってか、選挙期間中のメーデーも盛り上がりに欠けていた。 市民の多くは…
…すぐに取り戻す庶民の娯楽 関東大震災は、東京庶民に壊滅的な衝撃を与えた。市内の半数以上の人が被災し、大混乱に陥った。その混乱は、一月も経たないうちに収束に向かった。元の生活へと早く戻れたのは、庶民の自助努力である。地域の人間関係の結びつき、相互扶助など、自分たちで修復する力があったからである。現代の東京でも、同じような修復が期待できるであろうか。社会が複雑化し、人間関係が希薄化し、個人の力が埋没する組織など極めて難しいであろう。様々なことが、国や都に依存しなければならないよう…