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盛んに遊ぶ四十三年

…動館などのほか、中央庭園の築山から滝を落とした約16.5mの大瀑布や温室、それに海外諸外国の物産販売店や東京及び地方名産販売店が一体となっていた。 ルナパークのなかで目を引くのは、汽車活動館と木馬館であろう。汽車活動館は、客車の形をした部屋、その前方にスクリーンがあって、機関車の前にカメラを据えつけて撮影した風景写真を見るのだが、映写が始まるとガタガタと客車が揺れ、臨場感があった。景色は、御殿場線で撮られたらしく、畑のなかに二本のレールが続くだけの単調な風景が大半で、たまに鉄…

不況でも四十一年の娯楽は盛況

…Y吾妻橋の札幌ビール庭園へ700余名の花見の仮装行列4月M荒川堤で全国自転車大競争、一銭蒸気で押しかける4月M常磐津連も揃いの日傘等で茶番等の花見5月M靖国神社大祭、小児の曲芸は虐待、大鯱は悪臭で興行禁止、人出多く警備の警官が非難される5月Y神田明神の大祭、五日間5月 池上競馬に臨時列車運転6月G丸の内濠端に蛍が繁殖し、螢狩りで賑わう/時事6月W京山若丸が本郷座で新派浪花節を興行、空中飛行機との演し物が耳新しく評判に/中外商業新報7月M藪入、この年写真館の割引特に多し、浅草公…

運動会が広がる明治二十年

…が満開となり、風流な庭園を多数の見物人が訪れた。四月に曳舟四ツ木の花やしきが開園。大久保のツツジは再び注目され、年々華やかになった。五月、堀切のショウブ園などへ多くの人が出かけていった。夏の風物詩、入谷の朝顔市は、華族から庶民まで続々と来訪し繁盛した。九月には、秋の七草で有名な向島百花園だけでなく、柳島の萩寺にも多くの人が出て賑わった。秋は、各地の菊人形に加えて、品川・海晏寺の紅葉も数十本植えましたこともあって見物客が多かった。このように江戸時代からの行楽活動を楽しむ人々がい…

庶民を巻き込んだ園芸のバブル

…た。また、出版物は、庭園のガイドブックともいうべき、『春野七草考』『秋野七草考』『都鳥考』『墨水遊覧誌』などであった。特に『秋野七草考』は花屋敷ならではの売り物として人気を呼んだ。 「百花園」の人気は、式亭三馬の『浮世風呂』にも取り上げられているくらいだ。それ以降に作られた民営行楽地、たとえば蒲田梅屋敷、入谷朝顔園、小高園(花菖蒲園)なども、百花園に続けとばかり、飲食や土産物を主な収入源とする経営方法を採用した。 ところで当時の江戸の行楽地が菊や朝顔など、今で言う、自然を求め…

信鴻のガーデニング安永三年2

…り寄せたりして集めている。次いで多いクリは、栗拾いで、これまであまり行ったことがなかったのだろう。それに、初茸が加わり、毎日のように採取して楽しんでいたようだ。 三年になると、植物名では前年できなかった土筆摘みなどが加わる。そして、庭園内のマツや雑木の伐採が進んだと見えて、目につくようになったツツジへの関心が高まった。作業しても、伐採から雑草類の刈り払いとその焼却が多くなっている。増えたツツジは、記述として「躑躅をつくり」「つゝしを作る」で、剪定整枝をしているものと推測する。

花壇綱目

…デニングがある。大名庭園から庶民が庭先で鉢植えを育てるという文化、ガーデニングへの関心の高さは、江戸の景観にも反映されていた。江戸が世界一の庭園都市となりえたのは、こうした身分の上下、貧富に関わらず植物に愛情を持っていたからである。 そのようなガーデニングを展開させる下支えとなるのがガーデニング書で、江戸時代には百冊以上著作されており、これも世界一である。江戸のガーデニング、その礎となる植栽技術を最初に刊行したのが『花壇綱目』になる。以後のガーデニング書に与えた影響は計り知れ…

柳沢信鴻のガーデニング1773年の植物

…」はスギ(スギ科)、庭園内に生育するもので伐採している。 「杉菜」はスギナ(トクサ科)、土産に貰ったもので詳細は不明。 「石菖」はセキショウ(ショウブ科)、「求来」「一葉貰ふ」の記述があり、苗と推測する。 「石竹」はセキチク(ナデシコ科)、園芸種の鉢植と推測するが不明。 「千両」はセンリョウ(センリョウ科)、鉢植。 「蘇鉄」はソテツ(ソテツ科)、鉢植。 「橘」はタチバナ(ミカン科)、苗を貰う。 「蜀鶏ひ葉」はチャボヒバ(ヒノキ科)、苗か鉢植かは不明。 「茶蘭」はチャラン(セン…

★庶民の遊びに憧れて

…な敷地の大半が回遊式庭園になっており、「戸山荘」と呼ばれていた。この庭園は、25の風景からなっていて、個々の景色には様々な趣向が凝らしてあった。 たとえば、「鳴鳳渓」という場所にさしかかると、深谷にわけ入ったような心地になる。龍門の滝からは轟音とともに水が流れ落ち、急流の中にかろうじて出ている石の上を渡る。向かいの岸に登り後ろを振り返ると、いま自分が渡ったばかりの石が見る見るうちに水中に沈んでしまう。というような凝った仕掛けが戸山荘には作られていた。 さらに、戸山荘において最…

★幕府の思惑も絡んだ芸能界の既得権争い

…重が浜屋敷(現浜離宮庭園)造営を始める。 ○大和守邸での操り、度々有り。 ○堺町で天満八太夫、繰座興行する。 ・寛文十年(1670年)一月、都伝内の都座、堺町に設立する。 五月、秋まで造酒、酒の辻売・振売禁止する。 六月、山王権現祭礼される。 七月、市中の遊女捜索令出される。 七月、武家屋敷での花火を禁止、ただし海岸地では可。 七月、町中での花火遊び、仕掛花火、流星を禁止する。 八月、町中で茶屋構えして女を置き商売することを禁止する。 十一月、出家・山伏・行人・願人らの町中で…

伝統園芸の時代背景

…いた。それは、日本の庭園や花道などを見れば明らかである。 年表を見ればわかる通り、娯楽は大衆化し、その広がりの拡大を受け、幕府は干渉するがうまくいかず、むしろ翻弄される様が示されている。衆愚とは言うものの、面白い娯楽に身分の上下はない。たとえば、花を求める行楽活動は、始まりは上流階級の人々であったが、徐々に庶民の楽しみと化し、日本ならではの一大文化にまで成熟した。江戸の花見と東京の花見、どちらが優れた文化だろうか、比べてみれば一目瞭然である。 江戸時代は園芸にとって恵まれた時…

鷗外百花譜

…中にあり、旅先で見た庭園や景色などに啓発されたのだろう。鷗外は、当時の先端的な造園・園芸の資料を取得し、理解している。 『Lehrbuch der Gartenkunst(庭園術の教科書)』 『Lehrbuch der schönen Gartenkunst,2 Edit(美しい庭園技術の2版)』 『Die schöne Gartenkunst(庭園美)』、『Théorie der jardins(庭園の理論)』 『Geschichischen der italienisch…

『花道古書集成』全五巻の花材の呼称名2

…「岩躑躅」は、『日本庭園の植栽史』(飛田範夫 京都大学学術出版会)によると「サツキ」とある。だが、「岩躑躅」が現代のサツキである根拠は確認できない。イワツツジという名の植物は、ツツジ科にあるが、サツキではない。サツキについての記述を『樹木図説』(有明書房)を調べると、『和漢三才図会』『本草綱目』『和漢三才図会』『大和本草』などに記されているとある。しかし、それが「岩躑躅」であるとの指摘はどの書にも見られない。『草木名初見リスト』によれば、サツキの初見は1645年『毛吹草』とあ…

明治四十一~四十四年日記

…櫻盛に開けり。・・・庭園にて貝母の開けるを見る。」 四月 「二日(日)。晴。・・・妻、茉莉、杏奴を伴ひて上野動物園に往く。」 お花見をかねて外出したのであろう。陸軍省医務局長にして文豪である鷗外が家族そろって動物園に行ったのかと思うと、微笑ましい気分にさせられる。もちろん、根津の自宅から歩いていった。 「十四日(金)。晴。朝稍寒し。葉櫻・・・」 五月 「九日(火)。晴。暖なり。罌粟を買ふ。・・・」 罌粟は漢名で、ケシ科のケシ。どの辺りに植えたかは書かれていないが、たぶん花畑で…

『小倉日記』の植物

…る。 「五日。・・・庭園朝鮮しば植ゑたり。纎葉毛の如く、秀潤愛すべし。籬邉林木の間多く様式の蜂屋を排列し、密を採りて旁業となす。・・・」。コウライシバは、九州地方には自生するものの関東地方であまり普及していなかったのだろう。鷗外は珍しかったので記したのだろう。 続く八月の日記にも、花の記述はない。植物としても、七夕の竹が出てくるだけである。 「十一日。・・・此日家々竹を買ひ紙を裁ち、乞巧の備をなす。盖明日は陰暦の七月七日なればなり。」 九月に入って、始めて花に関する記述が見ら…

『花暦』5

…が入ってきて、公園や庭園を彩った。それに対し、鷗外の花の好みはあまり変わらず、大正時代には逆に時代後れを感じさせるようになった。たとえば、牡丹をイメージさせる天竺牡丹(ダリア)は嫌っていなかったが、改良の重ねられた派手なダリアはあまり好きになれなかったようだ。事実、花畑にはチューリップやバラなどが植えられた形跡はない。彼の嗜好は、斬新な花を選んでいたのではなく、外来種であっても江戸時代に馴染んだ花への郷愁を求めていたように感じられる。 鷗外は、西洋花を積極的に入れようとは思っ…

『明治三十一年日記』1

…時代に造られた江戸の庭園が崩壊しているのを見て、名園の沿革や当時の様相などを書きまとめたものである。 ・五月 「五月一日(日)。晴暄。花園を修治す。」 日曜日、鷗外は、四月はじめに秋花の種子を蒔いた花園の手入れをした。発芽を確認し、間引きや移植、草むしりなど、終日庭で過ごしたものと思われる。翌日は雨。鷗外にとっては、まさに恵の雨と言える。 「十日(火)。桐、藤の花開く。」 桐はノウゼンカズラ科の落葉高木のキリであろう。鷗外の庭には、梧桐も植えられていたことは確かだが、アオギリ…

「観潮樓」の庭づくり・その2

…り・その2 観潮樓の庭園は、築山泉水の日本庭園ではなかったが、全体としては和式の庭であった。大きく分けて、南庭、北庭、東庭の三つであるが、それに小さな中庭もあった。 ①主庭となる南側の庭は、横の東西は20m程度、奥行きは7~15m程度の鉤状の形をしていた。娘の茉莉が小堀遠州式の庭と思っていたらしく、飛び石が中心となる露地のようであった。そのような庭を、 「庭木は楓が一番多く、表玄関の屋根の際にあった一本は、天狗の団扇のような形で、へりにぎざぎざのある、大きな葉の、珍しい楓だっ…

住まいの変遷(根岸から千朶山房)と植物3

…んな所に茶園鷗、と思われるかもしれないが、『明治庭園記』に「江戸旗本屋敷上地に付て、庭園破壊し、桑茶植附の事」にも記されているように、明治二年、東京府による殖産振興策として茶の栽培が奨励されていた。 『吾輩は猫である』の中には、庭の植物名がいくつか登場する。アオギリ、キリ、サザンカ、ヒノキなどの樹木と、枯菊が散見されとあるが、この程度の植物では、漱石の庭は、鑑賞に耐えうる庭とは思えない。しかし、猫にとっては、葉を繁らせたアオギリが蝉取り場となり、まさに“我が輩の庭”であった。

住まいの変遷(千住からドイツ留学)と植物2

…、花に留まらず、宮廷庭園や景色におよび、「クラインガルテン」にも注目している。その関心は、単なる観光ではなく専門的な域に達していた。鷗外は、すべてのことを吸収する並外れた能力を有していたことを差し引いても、造園や園芸には一方ならぬ意気込みを感じる。彼は、留学中によって植物好き、ガーデニング好きが開花したに違いない。それは、彼が入手した以下の専門的な書籍を見れば明白である。 『Lehrbuch der Gartenkunst(庭園術の教科書)』 『Lehrbuch der sc…

住まいの変遷(津和野から向島)と植物1

…転居する。下屋敷には庭園があり、『名園五十種』(近藤正一著 博文館)によれば、亀井伯爵向島別墅の庭園は「森々として立てる木立を負うた優びやかな富士形の芝山それを背景にして前にはひろびろと水を湛た池を控へたる純粹の林泉式の大庭園で池の周圍は松檜などを其処此処に植込める芝生である。・・・」とその詳細が写真とともに記されている。 鷗外は、庭園について「御殿のお庭の植込の間から、お池の水が小さい堰塞を踰して流れ出る溝がある。その縁の、杉菜の生えてゐる砂地に、植込の高い木が、少し西へい…

人手の入らぬ土地はない

…注意深く手入れされた庭園と同じで、外国の旅行者を驚かす千年の文化の成果である」と、『江戸参府随行記』に記している。 彼は、当時の日本の農業が西欧のそれと比べて、手の入れ方に格段の違いがあることに気づいた。さらに、「山の斜面の下の方では日本の農民は驚くほどの勤勉さを発揮して、岩の多い土地を豊かな穀物や野菜の畑に作りかえていた。深い溝で分けられている細い畝には、オオムギ・コムギ・ナタネやキャベツの類(タカナ・キョウナ)・カラシ・ハトマメ・エンドウマメ・ダイコン・タマネギなどが一フ…

世界一美しい江戸の自然

…の町が数多くの公園や庭園で埋め尽くされているため、遠くから見ると無限に広がる一つの公園のような感じを受けるという見方を示した。いわく「江戸は庭園の町である」。つまり、江戸は当時、世界一の人口を抱えながら、ガーデニングを楽しむ国民性のおかげで、緑に囲まれた美しい都市を形成していたというわけだ。さらに、「広い、砂を敷いた気持ちの良い散歩道が、城を取り巻いており、文字通り水鳥が一面に浮かんでいる堀に沿っている」(『スイス領事の見た幕末の日本』森本英夫訳)と、野鳥の宝庫が江戸のど真ん…

ガーデニングでつくられた自然

…されるにしたがって、庭園が造られ、樹林も多くなったという点である。つまり、都市整備によって元の地形や植生を大きく改変しているにもかかわらず、野生生物の生息環境は、以前より悪化したかといえば、必ずしもそうではないのだ。 江戸市中には、ハクチョウ、サギ、ガン、ヒシクイ、バン、キツツキ、ホトトギス、ウグイス、カワセミ、ヒバリ等の鳥類、ウサギ、キツネ、タヌキ、リス、カワウソ等の獣類、また、マツムシ、スズムシ、ホタル等の昆虫類も豊富で、様々な野生生物が見られたようだ。幕末江戸の自然環境…

『花道古書集成』第一巻の花材その1

…「岩躑躅」は、『日本庭園の植栽史』(飛田範夫 京都大学学術出版会)によると「サツキ」とある。だが、「岩躑躅」が現代のサツキである根拠は確認できない。サツキについての記述は、『樹木図説』(有明書房)によれば『和漢三才図会』『本草綱目』『和漢三才図会』『大和本草』などにあるが、それが「岩躑躅」であるとの指摘は見られない。『草木名初見リスト』によれば、サツキの初見は1645年『毛吹草』とあり、それ以前、サツキが「岩躑躅」と呼ばれていたとは考えにくい。 花伝書にサツキが登場するのは、…

梅雨の草花

…理も容易なので、個人庭園だけでなく、公園や街路の花壇への植栽を薦めたい。特に、雑草が繁茂し、見苦しい状況になりやすい沿道の植込みには、最適である。 オカトラノウは、見た目にはさほど強そうに見えないが、在来種としては外来種にも負けないくらい強靱な植物である。草丈が高い割りには、根は浅く、10㎝程の深さに地下茎が伸びている。表土の厚さをあまり確保できない場所に植える植物としては、最適である。土質も選ばず、多少の乾湿には耐え、病虫害もほとんどなく、移植も管理も容易である。 オカトラ…

・都市の自然はつくりもの

…大学教授を都内の日本庭園に案内してしまった。だが、浜離宮はカラスが多く、まるでカラスのコロニーの中を歩いているかのようだった。造園や景観の専門家である教授も、小雨も降り出したこともあったが、カラスが目障りだたらしく、途中で見学を中止しホテルに帰ってしまった。通訳(台湾人)の話では、カラスの大群の中にいることが耐えられなくなったのではないか、ということだった。 何もしないのが自然保護だとすれば、庭の草むしりだって、すべきではないということになってしまう。都心の盛り場周辺にカラス…

日本の気候風土とガーデニング

…節変化を楽しむ 日本庭園と盆栽、スケールはまったく異なるものの共通する部分は多い。さらに言えば、鑑賞に求める本質は同じではないだろうか。というのは、日本庭園も盆栽も、三次元の造形に留まらない時間の芸術だからであろ。双方とも、四季の変化はもちろん、時代を超えて存続することを前提に作られている。 なかでも注目したいのは、年間を通して観賞に堪えるという事。日本人なら当前のことと思うだろうが、四季折々に植物を楽しむということは、日本の気候を前提に成立している。ヨーロッパの人たちは、冬…

和のガーデニング はじめに

…ナールなど西欧の整形庭園の模倣であり、わざわざ日本に訪れて見る価値はなかった。渓流広場にいたっては、キューケンホフやヒュロート・ベイヒャールデンを知っているプロの目には、二番煎じ以外の何ものでもない。日比谷公園においても同様、あえて言うに及ばない。 以前にも、外国人には、日本の公園は西欧の真似が多く、日本らしさが感じられないと告げられた。まず、公園を初めとして、街中に植えられている植物は外来種が多い。特に、街中の花壇は、ほとんどが外来植物で飾られている。よその国に訪れたら、自…

和のガーデニング・補足1

…障である。ベルサイユ庭園などの西欧整形庭園を見たことのある人にとっては、スッキリしない中途半端な景色である。 ②眺望(ビスタ)に奥行きを感じさせるには、凹みの角度(コンケーブ)をもっと急にする必要がある。すり鉢状にして見下ろすようにすれば、噴水・カナールはもっとその形がよく見えたはず。噴水が両側のイチョウ並木の焦点に位置するように、またそれがハッキリとわかるような景観にすれば、噴水が際たった。 ③イチョウは、20~30mに生長する樹木である。先端を切り落とさず伸ばしていたら、…

和のガーデニング・補足2

…営も、それまでの日本庭園の造園とは異なる形態、植物の遷移(サクセッション)という考え方を取り入れている。 この植物生態学の発想は、西欧から学んだものである。それに対し、当時の首相・大隈重信は、この造営を「雑木の藪やぶにするつもりか」と批判したとある。しかし、現在では西欧の模倣などまったく感じられない、日本ならではの様相を呈している。さらに、「明治」を冠することに違和感がないどころか、日本を代表する造園(公園)として外国人に胸を張って紹介したくなる。 それに対し、昭和記念公園は…