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…草公園は、旧来の庶民娯楽の充実と平行して、動物園や十二階の凌雲閣などの整備にも着手、明治時代を代表するレジャーセンターになった。そして、レジャー産業が萌芽した。 ─────────────────────────────────────────────╴ 明治二十九年までの主な事象─────────────────────────────────────────────╴ 明治十六年 1883年 四月新聞紙条例改正/七月教科書採択の認可制度実施/十一月鹿鳴館会館会館明治十七年…
…に便乗した二十八年の娯楽 四月日清講和条約調印、三国干渉/十月閔妃暗殺・戦勝に浮かれるが市民の娯楽は尻すぼみ 日清戦争は、国民皆兵、国力のすべてをかけて戦う。したがって、傍観者的な行動は許されない。だが、外国との戦争というものを実感できない市民は、実際に戦場を目にしていないこともあって、まだ勝敗が決まったわけでもないのにお祭のような戦捷祝賀会を催した。東京では、戦争が始まった時点で、日本の勝利を暗示する芝居が上演され、日本にとって有利な情報だけが報道された。それで市民は、まる…
… 124二十七年には娯楽にも戦時気分が 三月朝鮮で東学党の乱/七月条約改正なる/八月日清戦争勃発・戦争に向かっても、市民レジャーは変わらず 一月の新聞に、前年設立された日本輪友会が上野から王子方面に郊外サイクリングを実施したという記事がある。また、華山子爵の令息が京都に向けて東海道サイクリングに出発した。二月にも亀戸、向島などへ観梅サイクリングの記事がある。五月に深川警察は小僧や大憎が自転車を乗り回すのでこれを取り締まる。七月には宮田自転車が起業一周年の販売広告を出している。…
…み 123二十六年は娯楽のピークか 三月郡司大尉千島探検出発/六月福島中佐シベリア単騎横断より帰国・インフレにも変わらぬ市民のレジャー 一月の新聞に、「丁稚小僧の休日は一年に唯二回」と休日の増加を求める記事が出ている。今では大半の人が週休二日になっているのに比べて、当時の商店などで働く人々は休暇に恵まれていないことがわかる。その一方で、三カ月前に改正された内閣・官庁の執務時間に関する記事には、「流石(サスガ)はお勤め根性」と八時間労働にも文句をつけている様子が書かれている。…
…にほかならず、市民の娯楽嗜好にも大きな変化が起きていたと見るべきだろう。 寄席についてみると、芸人の種類と人数が大きく変わっていた。明治19年当時、義太夫(1246人)、昔話(782人)、常磐津(609人)、講談(426人)、長唄(371人)、手品(234人)などの多くの芸人たちがいたが、時流にあわない芸能ほど携わる人が減少した。減少率が最も高いのは、常磐津で90%、昔話が59%、長唄が57%、手品が50%、義太夫が43%、講談は40%の割合で減っている。むろん、すべての芸人…
…しかし、政治を庶民の娯楽の中に取り入れようと試みたたものの、選挙権のない人々を自由民権運動へと駆り立てることは所詮無理であった。芝居の内容も彼の期待どおりには理解されず、多くの大衆はナンセンス芝居として受け入れたにすぎなかった。 当時の取締りは場当たり的で、それまで許されていた祭の踊屋台が、九月の愛宕神社祭礼で差止められ、その上、店先での踊りも往来の妨害になると禁じられた。ところが、五月に末端の警察官に差止めの通達がでた「女の力持ち」は、10月の池上本門寺の会式に、両頭の牛な…
…ぬ遊びが盛ん 高額な娯楽が沈滞する一方で、お金のかからない行楽は盛んであった。特に花見は、隅田川、浅草、上野、飛鳥山などはどこも大勢の客で賑わったらしい。向島の八州園の花見所では、2銭の入園料を徴収した。飛鳥山には、小石川砲兵工廠の職工3百余人が揃いの袷、手拭い、下駄で、牛込の芸妓を25人も引き連れて繰りだすという豪勢な花見もあったらしい。反対に、上野で開かれた「どぶろく観桜会」は、会費わずか5銭たったという。この年最も賑わったのは19日の日曜日、隅田川では、浄瑠璃の素人連、…
…この頃は、江戸時代の娯楽そのままといったものより、昔を偲ぶという形で企画されたり、再現されるものが目立った。二月の千住で催された撃剣会、見物人の飛び入りもあって荒試合となり人気を呼んだ。三月には江戸時代のツツジの名所であった大久保百人町が、再びツツジ園として開園されると、新聞に載った。五月に繁華になった下谷佐竹原も、吹矢場や見世物などが中心となっている。六月の祭礼では、内藤新宿鎮守三光稲荷が獅子頭を新調して山車や手踊りを繰りだした。日枝神社も、前年新調した神輿に山車17両と踊…
…もかかわらず、庶民の娯楽、特に下層階級の娯楽活動が活発化している。前年の正月に比べて、見世物の観客が74%、道化踊が36%、寄席は29%が増加した。料金の高い劇場については、所得者層の懐具合が良くなっていないせいか、一月こそ観客は4%増えたものの二月以降は逆に減少している。それに対し、見世物などは、二月、三月に入っても観客数は、増加傾向を持続している。なお、道化踊は、前年あたりから流行しはじめたらしく、三月に下谷一丁目、芝森本町、牛込赤城町、深川森下町の4ヶ所三座で、道化手踊…
…いる。 不景気の影を娯楽関連の資料から示すと、寄席の観客数は前年度と比べて9万人(額では18%)減少し、337万人になった。見世物は、観客数が8万人と15%減少して49万人。劇場の観客数は、四月に市村座が一人につき一銭で見せて大入りを取ったことなどがあってか、人数こそ⒈5万人程度の減少ですんだものの、金額にすると16%も減っている。また、室内遊戯場の税金が18%も減少したことは、利用者数も同じくらい少なくなったものと考えられる。東京の人口が年々増加する中で、有料娯楽を楽しむ人…
…の楽しみ 108新旧娯楽を楽しむ明治十二年の庶民四月沖縄県設置/八月前米大統領グラント来日/九月教育令・相撲界は混乱が続く 当時の新聞から娯楽に関する記事を捜すと、正月に、「紛糾し、力士が大勢脱走す」という見出しがある。前年から両国での興行が許された大相撲だが、どうやら内輪もめがあったらしい。このため、九日の初日が十三日以降に延びた。また五月、相撲興行の前祝いで、力士が二人が泥酔して褌のまま踊りだし、拘引された。翌月には、力士相手に飲んでいた行事が苦情に腹を立て、料理屋の座敷…
…、寄席が庶民の最大の娯楽であったことは、観客数を見ると容易に察しがつく。約380万人ということは、平均すると東京市民が一人当たり一年に約五回訪れたことになる。おそらく寄席がかかっている日は、連日のように通っていた常連が大勢いたのだろう。いうまでもなく客の大半は庶民であり、仕事が終わった後にほっと一息つく、恰好のレジャーとして庶民の間にかなり浸透していた。 次に、見世物の観客数についてだが、臨時の興行や大道芸のようなものも含めると、実際には61万人を優に超えるだろう。市民が見世…
…7)になると、庶民の娯楽を制約したり、禁止したりする動きがさらに強くなった。二月、市街で凧揚げ、羽打ち、独楽等を行うと交通の障害になるという理由で禁止する布達が出された。楊弓店の増加に対しては、風紀の悪化を防止するため楊弓店取締規則が定められた。それは、楊弓店は表向き、大小様々な的を弓で射る遊び場であった。が、そこには「矢取り女」と呼ばれる化粧をした女がいて、客は弓よりそうした女たちを目的に訪れていたからであった。 五月には、神田花岡町や飯田町の空き地で行われていた、木戸銭1…
…時期になると、市民の娯楽にも欧米の影響が少しずつあらわれており、七月の寄席に、ヘンリイ・ブラックという米国人が手品を見せている。・猛暑に「滝」が大流行 一方、江戸時代からの行楽も、引き続き人気が高く、初詣・出初式と正月から活発である。三月にはウメの名所である大森村の梅屋敷が賑わい、彼岸の浅草は、天気がよいこともあって大賑わいだった。四月は花見に開帳。向島では、女装や高歌放吟で逮捕者がでるほどの騒ぎであった。州崎の浜には潮干狩りの人の群れができた。ハナショウブも人気があったと見…
…しれない。当初水泳は娯楽というよりも、江戸時代からの兵法の一術として政府が奨励した。それを民間が受け、公有水面の拝借許可を得て水泳道場を開設、一般の人にも広まっていったもの。明治六年、北本所表町の石置場において、「水泳稽古」の生徒募集を行った。水泳稽古には、様々な規則があって、現代の感覚からすればなかなか厳しそうだ。稽古は、午前八時に始まり午後六時までだが、その間道場から出ることは許されず、弁当を持参するか取り寄せるようにとなっている。また初心者は、素肌に水下帯だけにして、衣…
…も安く、庶民の手軽な娯楽として興行され、部屋の造りや演目にも江戸の匂いが色濃く残っていた。その一方で、十月、京橋の松邑亭では新聞記事を題材にした講談を伯円が演じるなど、新しい試みも喝采を得ていた。十一月には、大阪から上京した竹沢弥七が、浅草田原町三俵亭で普通の三味線の二倍の大三味線を自由に弾きこなし、またたく間に人気者となった。 この時期になると、駕籠を見ることもなくなった庶民は、日々に大きく変化する東京を肌で感じはじめていた。時代の流れに何の抵抗もできない庶民は、そうした変…
…いる。当時の日本人の娯楽は、西欧人の目には全く異質なものと映ったようで、特に庶民の行動は理解しがたいものだった。ブスケは、見すぼらしい恰好だが上流階級よりもむしろ楽しげに遊ぶ庶民、またそうした人々のあっけらかんとした性感覚など、当時の庶民の生き生きとした様子を記している。 江戸時代と同じような見世物としては、回向院に活人形の化け物(約9m大黒天の巨像)が出ている。下谷元おなり道東側裏で、手妻軽業綱渡りの入る歌舞伎狂言が芝居として興行されている。また、川崎大師では、虎と豹の見世…
…査するようになった。娯楽はもちろん、庶民の生活全般についても干渉するべく、そのための体制が整いつつあった。しかし、庶民は浮かれ歩くことに忙しく、江戸時代の「三日触れ」がまた出されたていった程度の認識しかなかった。─────────────────────────────────────────────╴ 明治四年(1871年)の主なレジャー関連の事象─────────────────────────────────────────────╴ 1月B上野山下に柳川一蝶斎てづまの…
…。正月とはいえ大した娯楽のない庶民のこと、ひれ伏しながらも行列を見物し、色々と比べて噂し合うという恰好の楽しみは失われた。したがって、いつになく静かな正月であったに違いない。また、この年は、正月早々、早くも梅の花が咲き、中旬には紅梅の開花のたよりも伝わっている。 戦いの後長らく閉じられていた上野山内だが、二月の中頃になってようやく参詣や花見などの立ち入りが許された。そうなると戦いの跡を一目見ようという見物人が、日を追って増えていった。また、下旬には、江戸城吹上御苑の拝観が許さ…
…、庶民の趣向に応じた娯楽読み物という面を持っていた。内容は、パロディーや機知に富む読み物から世間で評判になっている事柄など多種多様であったようだ。形式は大半は一枚刷りであるが、時に手書きの瓦版や写本もあったらしい。瓦版は、火事や心中、仇討ちなどの話が多く。特に、心中や仇討ちは面白おかしく脚色された。瓦版の情報は必ずしも正確とは言えず、客観性に疑問のあるものも多い。そのため、内容が低俗で、下賤な河原者たちの刷り物、という意味から瓦版という名前になったとも言われている。 ところで…
…ったが、次第に飲食や娯楽をともなうようになり、市での買い物も楽しみの一つになっていった。 江戸の縁日は、毎日どこかで催され、一年中ほとんど切れることなくあったようだ。多い日には同じ日に、江戸の各地に縁日があり、特に奉公人の藪入(休日)と重なる閻魔参りには、百箇所に及ぶとされていた。『東都歳事記』(斉藤月岑)には、当時の縁日の繁昌ぶりや数多くの縁日がいつどこで催されるのかが詳細に記されている。また、『江戸名所図会』(松潯軒長秋編輯 長谷川雪旦図画)の「茅場町薬師堂の縁日」を見る…
…火を免れた上、人々は娯楽に飢えている節があるから新春の興行は、思い切って打って出たい旨が書かれていた。喜三郎が小躍りして、江戸へ上ったのは言うまでもない。 二回目という今度の興行では、小屋自体も間口十三(23.6m)奥行十四間(25.4m)と驚くべき広さで、廊下づたいにまわりながら見物できるようになっていた。さらに番付を売る店や雨天時にも不自由なく見物できるような仕掛けなど様々な工夫を凝らした。当時これにかけた費用について「千両箱が空になった」と取り沙汰されたほど。 いよいよ…
…の人々が憩える場所や娯楽が少なかった。出かける場所といっても、社寺くらいのものだっただろう。加えて、幕府の命による祭事が盛大に行われていたこともあって、江戸庶民の行楽は、社寺への参詣から始まったという感が強い。 江戸での遊びは、開幕のころから行われていた。江戸の三大娯楽と称された、吉原遊廓が1617年、また、歌舞伎芝居の興行や江戸勧進相撲は1624年に始まった。しかし、それらは、経済的にゆとりのある武士や商人に限られたものであった。当時の庶民(下層階級)は、その日暮らしでその…
…せれば、正月の初めは娯楽が少なく、他に出かける所がないかららしい。 初寅(毘沙門)・初卯(妙義)・初巳(弁天)などと、その後もあちこちの神社、仏閣などのめぐりが続く。なかでも、十六日の藪入りと重なる閻魔参りは、浅草寺御蔵前長延寺、小石川富坂町源覚寺などをはじめ、百カ所程度の閻魔堂で行われる。そこで繰り広げられた縁日の賑わいを考えれば、家族の誰か一人が出かけるほど一般的な(10~25%)行楽活動であった。 春、人々はほころびかけた梅の花を見ようと、亀戸、向島、蒲田などへ出かけ始…
…見世物や寄席のような娯楽として、また『東都歳事記』の中で「景物」と呼ばれる、花見、汐干、漁獵、螢、紅葉狩り、雪見など、現代のレジャー活動へとつながる遊びであった。 ★享和1年1801年 2月 中村座で『仮名手本忠臣蔵』大当たり大評判 春頃 浅草寺開帳を含め開帳6 3月 この頃から小金井村の桜見物ふえる 3月 深川八幡で勧進相撲 3月 河原崎座で『加々見』『江の嶋奉納見台』大当たり 4月 市村座で『全盛伊達曲輪入』大入りで5月節句休みなし 夏頃 回向院での嵯峨清涼寺開帳を含め開…
…四年1783年の主な娯楽・行楽関連の事象 1月7日 浅草甚賑也 1月 中村座で『筆始勧進帳』初演 1月24日 吾つま橋際地蔵尊百万遍の菓子を往来へ投与ふるゆへ人群集、浅草群行賑也 閏1月2日 浅草参詣、境内賑也 2月18日 山内彼岸桜爛漫人群集、見明院太師熟閙、浅草ことに賑ハし、観音内陣込合 2月24日 谷中通春遊の行人賑也、山中往来の人多し、黒門前諾侯参詣多し、両国橋上より大群集、廻向院道了権現人叢分かたき、四天王像甚熱閙 2月26日 今川橋手前にて雛市見る、市中熱閙 2月…
…元年1781年の主な娯楽・行楽関連の事象 1月18日 凌雲院大師へ、大熱閙人叢分かたし、清水参詣、山内(上野)群集 2月1日 浅草参詣、本堂にて談儀、参詣賑し 2月朔日より 浅草妙音寺にて鎌倉名越谷長勝万寺祖師開帳 2月15日より 回向院にて、下總小金竹一月寺釈迦如来不動尊開帳 2月 多田やくし・沼田延命寺にて、信州善光寺四回如来御命文内拝 2月26日 上野今日御成後参詣甚多し、浅草奥山参詣甚多し、塗中甚賑也、街道群集両国より人叢分かたし、廻向院、甚熟閙、本堂も人叢 3月1日…
…多死」とある。 他の娯楽関連として、柳橋河内屋で烏亭焉馬が『太平楽之巻』を自演している。これが、落語(落噺)隆盛の元とされている。 ★五月 朔日○七過よりお隆同道庵の門より長屋幟見に(略)野田長屋へ行休み、村井方にて茶をのみ暫在、吉村長屋前より供、雄島方へも行、木俣方に暫在、新井・穴沢・滝長屋へ行、滝路次より台所口ヘ帰る、日暮也 四日○九頃よりお隆同道浅草参詣(略)谷中口(略)光岩寺参詣、御影をうけ戸繋伊勢屋に休み(略)薩埵拝し御手洗へ鰻放し、源水床机にて枕こまの手つまを見、…
…数の読者を期待できる娯楽書であれば引き受け手はありますが、教養書となりますと大変です。そのような昨今の状況の中、環境緑化新聞発行人・井上元氏の口添え、株式会社創森社・相場博也氏のおかげで刊行に相成りました。なお、小生の力不足により、刊行後早々誤植が見つかり、以下の赤字のように訂正いたします。 ★はじめに 四季折々に花を眺めて楽しむ、そうした日本ならではの自然特性を生かしたガーデニングについて記したのが『花壇綱目』である。 『花壇綱目』は、庭の意匠を記した『作庭記』(平安後期頃…
…が明治になって求めた娯楽を見ればよくわかる。 明治時代の中頃に活躍した人というのは、江戸時代に生まれ育った人である。天保年間(1830~44年)に生まれた人は、40歳代の中年である。彼らの生活感は、しっかりと江戸に根を下ろしていた。そのため明治になっても、江戸っ子の遊びは、基本的に江戸時代と変わらず、政治的に混乱していた幕末期より盛んであった。開帳に祭り、寄席などを楽しむ姿は、東京市民というより江戸っ子そのものであった。 彼らの遊びを見ると、文明開化ならではの欧米レジャー、ス…